野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十四) 目 次  雪の夜  雛の別れ  娘の役目  子守唄  権三は泣く  雪の夜     一  銭形平次が門口の雪をせっせと払っていると、犬っころのように雪を蹴上げて飛んで来たのはガラッ八の八五郎でした。 「親分、お早う」 「なんだ、八か。大層あわてているじゃないか」 「あわてるわけじゃないが、初雪が五寸も積っちゃ、ジッとしている気になりませんよ。雪見と洒落《しゃれ》ようじゃありませんか」  そう言う八五郎は、頬冠《ほおかむ》りに薄寒そうな擬《まが》い唐桟《とうざん》の袷《あわせ》、尻を高々と端折って、高い足駄を踏み鳴らしておりました。雪はすっかり霽《は》れて、一天の紺碧《こんぺき》、少し高くなった冬の朝陽が、真っ白な屋根の波をキラキラと照らす風情は、寒さを気にしなければ、全く飛び出さずにはいられない朝でした。 「たいそう風流なことを言うが、小遣いでもふんだんにあるのか」 「その方は相変らずなんで」 「心細い野郎だな。空《から》ッ尻《けつ》で顫えに行こうなんて、よくねえ量見だぞ」 「ヘッヘッ」 「いやな笑いようだな、雪見に行こうてエ場所はどこだ」 「山谷ですよ」 「山谷?」 「山谷の東禅寺《とうぜんじ》横で」 「向島とか、湯島とか、明神様の境内《けいだい》なら解っているが、墓と寺だらけな山谷へ雪を見に行く奴はあるめえ、そんなことを言って、また誘《さそ》い出す気なんだろう」 「図星ッ、さすがに銭形の親分、エライ」  八五郎はポンと横手を打ったりするのです。 「馬鹿野郎、人様が見て笑ってるじゃないか。往来へ向いて手なんか叩いて」 「実はね親分、山谷の寮に不思議な殺しがあったんで」 「あの辺のことなら、三輪の兄哥《あにい》に任せて置くがいい」 「任せちゃ置けねえことがあるんですよ。殺されたのは吉原の佐野喜の主人弥八ですがね」 「あ、因業《いんごう》佐野喜の親爺か、この春の火事で、女を三人も焼き殺した楼《うち》だ。下手人が多過ぎて困るんだろう」 「多過ぎるなら文句はねエが、三輪の親分は、たった一人選りに選って田圃《たんぼ》の勝太郎を挙げて行きましたよ」 「えッ」  田圃の勝太郎は、まだ二十七八の若い男で、もとは八五郎の下っ引をしていたのを、手に職があるのに、岡っ引志願でもあるまいと、今から二年前、平次が仲間に奉加帳《ほうがちょう》を廻して足を洗わせ、田圃の髪結床《かみゆいどこ》の株を買って、妹のお粂《くめ》と二人でささやかに世帯を持っていたのでした。 「妹のお粂が飛んで来て、けさ三輪の親分が踏み込んで、兄さんを縛って行ったが、兄がゆうべ一と足も外へ出なかったことは、一つ屋根の下に寝ていたこの私がよく知っている。夫婦約束までした嬉し野が焼け死んでから、兄さんはひどく佐野喜の主人夫婦を怨《うら》んではいたが、そんなことで人なんか殺す兄さんでないことは、八五郎さんもよく知っていなさるでしょう。銭形の親分さんにもお願いしてどうぞ兄さんを助けて下さい——とこういう頼みなんで」 「なんだ、そんなことなら早くそう言やいいのに」 「それに三輪の親分だが、——殺しが知れてから半刻経たないうちに下手人を挙げたのは、自分ながら鮮やかな手際だったよ。銭形が聴いたらさぞ口惜しがるだろう——って言ったそうで」 「そんなことはどうでも構わない。出かけようか八。お静、羽織を出しな」 「有難い」  八五郎はすっかり有頂天《うちょうてん》になって、平次の先に立って犬っころのように雪道を飛びました。     二  山谷の東禅寺横、田圃と墓地を左右に見て、二三軒の寮と少しばかりの|しもた《ヽヽヽ》屋が建っておりました。その中で一番洒落たのが佐野喜の寮で、左手は奉公人達が息抜きに来る別棟《べつむね》の粗末な離屋《はなれ》。裏には三四間離れて、植木屋の幸右衛門の家があり、南は田圃に開いた見晴しで、平次が行った時は道だけは泥濘《ぬかるみ》をこね返しておりましたが、田圃も庭も雪に埋もれて、南庇《みなみひさし》から雪消《ゆきげ》の雫《しずく》がせわしく落ちている風情でした。  銭形が来るという前触れがあったものか、番頭の万次郎は心得て門口まで迎えます。 「御苦労様でございます。親分さん」 「三輪の万七兄哥が念入りに調べたそうだが、後学のために、俺もちょいと見ておきたい。仏様はどこだえ」 「ヘエ——、御検屍の御役人様方がこの雪でまだおみえになりませんので、そのままにしてあります。どうぞこちらへ——」  万次郎は先に立って、狭いがしっかりした梯子《はしご》を二階へ案内しました。こんな商売によくある、垢抜《あかぬ》けのした五十がらみ、月代《さかやき》も、手足もいやにツルツルした中老人です。 「フーム」  二階はたった一と間、唐紙の中へ入った平次は思わず眼を見張りました。六畳の半分をひたして血の海、その真中に贅沢な床を敷いて、主人の弥八は殺されていたのです。 「こんな恐ろしいことになりました。親分さん方」  番頭は部屋の隅にヘタヘタと坐って、死骸から眼を外らせます。あまりの凄まじさに、正視出来ない様子です。 「主人はこの家に一人いるのか」 「いえ、お鶴という子供が一人、手廻りの用事を足して、この家に泊っております。夜が明けると、あちらの別棟から下女のお吉や、下男の音松が参りますが、御主人はせっかく寮へ来て休んでいるんだから夜だけでも静かな方がいいとおっしゃるもので——」  番頭の話を聴きながら、平次は念入りにその辺を調べました。主人は寝込んだまま、一刀の下にやられたらしく、脇差が喉を貫き、蒲団までも突き抜けて、畳へ切っ尖が差しております。 「大変な力だね、親分」  八五郎はちょっとその柄《え》に触って舌を巻きました。 「まさか槌《つち》で叩き込んだんじゃあるまいな。柄頭を見てくれ」  と平次。 「なんともありませんよ」  金具には髪の毛ほどの疵《きず》もないところをみると、やはり馬乗りになって力任せに突き通したものでしょう。 「青梅綿《おうめわた》の蒲団を二枚通すのはえらい力だな」 「こいつは天狗でなきゃ怨霊《おんりょう》ですぜ、親分」 「馬鹿なことを言うな」  そうでなくてさえ、この春の火事には、延焼して来る火の手を眺めながら、大金の掛っている十幾人の妓《おんな》に逃げ出されることを惧《おそ》れ、納戸に入れて鍵をかけたばかりに、三人まで焼け死ぬような無慈悲なことをして、世間から鬼のように思われていた佐野喜の弥八です。怨霊に殺されたなどという噂《うわさ》が立ったら、その日のうちに瓦版《かわらばん》が飛んで、来月は怪談芝居の筋書になるでしょう。 「戸締りは念入りだな」 「ヘエ——、主人は大層やかましく、申しました」  と万次郎。  平次は立って雨戸の工合を見ましたが、なんの変化もありません。もっとも外からコジ開けるにしても、切立った二階窓で下からは足掛りも手掛りもなく、隣の植木屋幸右衛門の二階窓とは同じ高さで向き合っておりますが、三間以上離れておりますから、羽がなくては飛び付く術もないわけです。  その隣との間の雪の上に、たった一カ所小さい穴のあるのは、上から物を放ったか、鳥が餌を探しにおりたのでしょう。手摺《てすり》の雪は雨戸を繰る時大方払い落とされた様子です。 「脇差は誰のだい」 「主人の品でございます。用心棒の代りに、この二階の床の間においてあったはずで」  そう説明されるとなんの手掛りにもなりません。 「ゆうべ主人の様子に変わったことはなかったのか」 「ヘエ——、別段変ったこともございませんでした」 「主人はちょいちょい此寮《ここ》へ来るのか」  用心堅固に口を緘《つぐ》む番頭の万次郎から、いろいろのことを引出すのは、相当の骨折りです。 「滅多に参りません」 「それはどういうわけだ。もう少し詳しく話してくれ」 「お神さんがこの夏この寮で亡くなってから、あまり良い心持がなさいませんようで、一度もいらっしゃいませんでしたが、近頃ひどく疲れたから、せめて二三日休みたいとおっしゃって、きのう久し振りでお出でになりました。私はお供をして参りましたようなわけで、ヘエ」 「お神さんも、変死したのではなかったかい」  平次は佐野喜のお神さんが、春の火事で焼け死んだ妓《おんな》どもの祟《たた》りで自殺したという噂のあったのを思い出しました。 「ヘエ——」 「それを詳しく聴こうじゃないか。ね番頭さん、お前さんはたいそう用心しているようだが、前後の経緯《いきさつ》を詳しく話してくれないと、罪のないものが罪を被《かぶ》ることになるよ、——これは物の譬《たとえ》だが、あの大雪の中を忍び込んで、この二階へ迷いもせずに登って来た上、これだけの恐ろしい力で主人を刺せるのは、よく案内を知った男だ」 「ヘッ」  万次郎は肝を潰しました。疑いは真っすぐに自分を指していることに気が付いたのです。 「どうだ、隠し立てなんかせずに知っていることは皆んな話してみちゃ」 「申します、親分さん、——お神さんは、この夏の末|普請《ふしん》が出来上ってホッとしたから、骨休めがしたいとおっしゃって、この寮へ来て泊った晩、急に気が変ったものか、下の部屋の梁《はり》に扱帯《しごき》を掛けて首を吊って亡くなりました」 「その時は誰が一緒だったんだ」 「私は参りません。離屋の方に下女のお吉と下男の音松が泊り、この寮にはやはり小女のお鶴がおりました」 「確かに自殺だったのか」 「間違いはございません。三輪の親分さんも、御検屍のお役人様もそうおっしゃいました」 「そのお鶴というのに逢ってみよう」 「呼んで参りましょうか」 「いや階下《した》へ行こう」  平次とガラッ八は、狭い梯子を踏んで下に降りました。そこは店の方から駈け付けたらしい人間で調べも何も出来ないほど一ぱいです。 「皆んなにしばらくの間、向うへ行ってもらおうか」  その人数を別棟の方に追いやって、平次は小女のお鶴を呼び出しました。     三 「お前はお鶴というんだね」 「ヘエ」 「怖くなかったかい」 「……」  平次の調子があまりに穏かなのと、その言葉の奥に優しく慰《いた》わる響きがあるので、お鶴はびっくりして顔を挙げました。お鶴の想像していた御用聞という概念とはおよそ心持の違った平次です。  十四五にもなるでしょうか、なんとなく目鼻立ちの悪くない方ですが、発育不良らしく痩せ衰えた上、小柄で青白くて日蔭に咲きかけた雑草の花のような感じのする小娘です。 「お前の親許はどこだ、——幾つで何年奉公している」  平次は一ぺんに三つの問いを投げかけました。 「川崎在でございます。二年前十三の時、十九になる姉と二人で奉公に参りました」  お鶴の答の要領のよさ。 「姉はどうした」 「この春の火事で亡くなりました」 「そうか」  泣き出しそうなお鶴の顔を、平次は憐れ深く見やりました。たぶん姉妹二人、よくよくの事情で女衒《ぜげん》の手に渡り、年上の姉は佐野喜の店で勤め、年弱で身体も萎《いじ》けきっている妹のお鶴は、寮の下女代りにこき使われていたのでしょう。 「姉が死んで口惜《くや》しいと思わないのか」 「口惜しいと思いました——でも」  弱くて若い女の子に、それがどうなるものでしょう。お鶴は口惜しさも涙も隠そうともせず、俯向《うつむ》いて前掛に顔を埋めるのです。 「両親はないのか」 「父親は五年前に亡くなり、母親は病身で親類の家に厄介《やっかい》になっております」  平次はすっかり考え込んでしまいました。この日蔭で干し固めたような少女には、弥八を殺す動機がないとは言えません。 「主人はお前によくしてくれたのか」 「……」 「給料はいくらだ」 「……」  お鶴は黙って頭を振りました。因業佐野喜は決して結構な主人ではなかったことはよく解ります。 「ゆうべ皆んな別棟に引き揚げたのは何刻《なんどき》だ」 「お吉さんが引き揚げたのは戌刻《いつつ》〔八時〕頃で、番頭さんはそれから間もなく引き揚げました。雪の降り出す前で——」 「それっきり寝てしまったのか」 「は、いえ、按摩《あんま》さんが来ました」 「どこの按摩で、なんという」 「玉姫の多の市という人で、よくこの辺を流して歩きます。御主人様が昼のうちに往来で逢って約束なすったそうで、亥刻半《よつはん》〔十一時〕頃雪が降り出してから|いきなり《ヽヽヽヽ》入って来ました」 「揉《も》ませたのか」 「遅いからもう止そうと断りましたが、多の市さんは依怙地《いこじ》な方で、こんな大雪にわざわざ来たんだからと、無理に入り込んで——」 「二階へ上がったのか」 「いえ、階下の八畳でちょっと揉んでもらいました」 「帰ったのは?」 「すぐ帰りました。子刻《ここのつ》〔十二時〕前だったでしょう」 「それから」 「御主人は二階へ行ってお休みになりましたし、私は階下で、何時ものように休みました」 「二階へは有明《ありあけ》を灯けておくのか」 「油が無駄だからとおっしゃって、いつでもすぐ消します」  佐野喜の主人ともあろうものが、有明の種油を惜しむというのは、ちょっと常人に思い及ばないことです。 「ゆうべ主人は酒を呑まなかったのか」 「晩の御飯のとき二合くらい召し上りました」 「そんなことでよかろう。ところで今朝の様子を話してくれ」  平次は話頭を軽く転じました。 「朝起きてみると、お勝手口の戸が開いていて、外には大きな足跡が付いていました」 「確かに戸は開いていたに違いあるまいな」 「え、——寒い風が吹込んでいました」 「八、雪の降り出したのは、何時ごろだえ」  平次は八五郎を顧《かえり》みました。 「戌刻《いつつ》時分から降り始めて、夜中にひどくなりましたよ」 「降り止んだのは」 「大降りだった割りに早く霽《は》れたようですね。牡丹雪《ぼたんゆき》で二た刻ばかりの間にうんと積ったんでしょう、寅刻《ななつ》〔四時〕前に小用に起きた時は、小降りになってましたよ」 「すると、下手人は寅刻《ななつ》近くに出て行ったわけだな、——その足跡には雪が降っていなかったのか」 「え」 「お勝手口は締め忘れたのか、それとも外からコジ開けたのか」 「三輪の親分さんは、鑿《のみ》かなんかでコジ開けたに違いないと言いました」  お鶴がそう言うまでもなく、お勝手の雨戸にも敷いにも、大きな傷のあることは、その間に家中を嗅ぎ廻っている、ガラッ八もよく見窮《みきわ》めておりました。     四  つづいて下女のお吉を呼んで調べましたが、大した役に立ちそうなこともありません。 「なんにも知りましねエよ。けさお鶴さんに騒ぎ出されて、びっくりして飛んで行っただ」  三十二三のお吉は働くのと溜める外には興味のありそうもない、恐しく頑丈な醜女《しこめ》です。  佐野喜へ奉公に来て六年目、平常《ふだん》は店の方にいて、主人が寮へ来るときだけ付いて来るそうで、何を訊いても一向筋が通りません。 「主人を怨んでる者があるだろう。お前の知っているだけの名前を言ってみな」 「皆んな怨んでるだ。私は給料が少くて仕事が多いし、番頭さんは朝から晩までガミガミ言われるし、音松爺さんは六十八になるが、国へ帰してもらえそうもないし、お鶴は姉の百代《ももよ》さんが焼け死んだし、勝太郎さんは嬉し野さんが死んだし——」  お吉は水仕事で太くなった指を折って、こう勘定するのです。全く際限がありません。 「近頃主人にひどく叱られた者はないのか」 「毎日目の玉の飛び出るほど叱られるから、慣れっこになって驚かないだよ」 「けさの騒ぎのときお鶴が離屋《はなれ》に迎えに来たのか」 「いえ、大きな声をしたから驚いて駈け付けただ」 「お前が行くとき、雪の上に足跡があったかい」 「あったようだよ」  それ以上はこの女の粗笨《そほん》な記憶を引き出す術《すべ》もありません。 「店中はともかく、世間の人が皆んな主人を怨んでいるわけじゃあるまい」 「そうだよ」 「一人くらいは怨まない者もあるだろう」 「お隣の幸右衛門親方だけは、ひどく有難がっているよ」 「それはどういうわけだ」 「娘のお歌さんの親許|身請《みうけ》のとき、唯みたいに安くしてもらったんだってネ」  お吉の話によると、植木屋幸右衛門はもと鳥越で大きく暮していたが、悪い人間に引っ掛って謀判《ぼうはん》の罪に落されそうになり、身上《しんしょう》を投げ出した上娘のお歌まで佐野喜に売って、ようやく遠島は免れましたが、その後お歌の歌川が病気になり、勤めもできない身体になったのを可哀想に思って、ひどい苦面で親許身請をし、この寮の隣の二階屋を借りて養生をさせましたが、重い癆咳《ろうがい》でとうとう去年の暮れ死んでしまったというのです。身売りの時も知合いの佐野喜が思いきった金を出してくれ、病気で親許へ帰る時は、世間の相場で三百両も五百両も積まなければならない歌川を、たった五十両で帰してくれた恩を、幸右衛門は今でも身に沁みて有難がっているというのでした。 「その幸右衛門は来ているのか」 「第一番に飛んで来て、いろいろ手伝っていたが、先刻帰ったようで」  その次に平次は、下男の音松に逢ってみました。それはもう六十八という老人で、腰も曲り、歯も残らず欠け落ち、|ぼんのくぼ《ヽヽヽヽヽ》に少しばかり白髪の髷《まげ》が残っている心細い姿ですが、多年の労働で鍛えた身体だけはなかなか頑丈らしく、耳さえよく聴えたら、相当役に立ちそうな親爺でした。  給料の前借があるので、主人がなかなか川越在の田舎へ帰してくれないのが不平のようですが、それを除けば大した文句もないらしく、結局小女のお鶴とたった二人で、滅多に人の来ない寮の番人をしているのが、かえって気楽そうでもあります。  朝からのことを一と通り話させると、 「いや驚きましたよ。何しろ私どものいるところからこの母屋《おもや》まで、五六間のところに大きな足跡が付いているんでしょう。お鶴が気が違ったように騒ぐから、二階へ上がってみるとあの始末だ」 「第一番にどんなことをした」  平次は爺やの耳元で声を張り上げました。 「町役人とお店と医者へ行かなきゃならないから、まず隣の幸右衛門さんのところへ飛んで行って手伝いを頼みました」 「幸右衛門はまだ起きてなかったのか」 「平常《ふだん》は恐しく早い人だが、大雪の朝は寝心地が良いから、今朝にかぎって大寝坊だ。戸を叩いても容易に起きないのには弱りましたよ」 「幸右衛門の家から出るか入るかした足跡はなかったのか」  平次の気の廻ること——、ガラッ八はそれを聴きながら固唾《かたず》を呑みました。 「雪の中の一軒家のように、犬っころ一匹側へ寄った足跡もねエ。五寸以上の雪だから、たった五六間歩くのに、足駄がめり込んで弱ったね」  意味もなく語りつづける音松老人の言葉は、植木屋幸右衛門を遠く嫌疑の外へ追い出して了います。 「往来からすぐこの寮へ来た足跡はなかったのか」 「ありませんよ。もっとも往来から俺達の休んでいる離屋はすぐだから、軒伝いに廻って来て、母屋のお勝手へ入れば別だが」  音松の説明は、全く他の者——例えば勝太郎のようなものでも、寮へ来ることの可能を証拠立てます。 「お勝手にあった足跡は足駄か草履か、それとも——」 「そこまで判らねえ、でもなんか歯の跡が見えたように思うが——」  はなはだ覚束《おぼつか》ない言葉です。     五  平次とガラッ八は、隣の植木屋幸右衛門の家へ顔を出しました。 「親方、とんだ迷惑だネ」  平次はお世辞ものです。なにか昔馴染の家へ遊びにでも来たような心置きなさ——。 「ヘエ——、銭形の親分さんだそうで、御苦労様」 「俺の来ることが大層早く判ったんだね」 「お鶴坊がそう言って教えてくれましたよ。江戸で高名な銭形の親分さんがいらっしゃると——」 「ハッハッ、そいつは丁寧過ぎて謝った。ところで親方、ゆうべはなんにも物音を聞かなかったかえ」 「なんにも知りませんよ。あれ程の騒ぎがあったんだから五間と離れない私の家へ聞えないはずはないんですが、一杯飲んで寝たのと、大雪のせいでしょう。雪の降る晩というものは、不思議に物音が聞えないものですね。同じ屋根の下でも階下に寝ていたお鶴坊が知らないくらいですから」  静かな調子と重厚な感じの物腰が、この中老人をひどく穏かにします。中老人といっても佐野喜の主人と同年輩の、せいぜい四十七八でしょうか、もとはよく暮したというのが本当らしく、言葉の調子にも、身のこなしにも、なんとなく品格の匂う人柄でした。 「ところでお前さんたった一人で暮していなさるのかい」 「ヘエ——、悪い月日の下に生れましたよ。女房に死なれた翌る年、騙《かた》りに引掛って身上を仕舞い、その二年後には娘に死なれたんですから。天道様を怨む張合いもありません」  幸右衛門は長い眉を垂れました。この上もなく静かですが、動乱する心の中の悲しみは平次にもよく解ります。 「佐野喜を怨む筋はなかったのかい」 「最初は良い心持ではございませんでした。納得して金に換えた娘でも、親から見れば買い手が怨めしくなります。でも、二年目に病気になると、たった五十両で親許に返してくれました。半年前に三百両で身請け話のあった娘です」 「なるほどな」 「それから、お隣に住むようになって、寮へいらっしゃるたび毎に、なにかにつけてお世話になりました。うまい物があれば届けて下すったり、良い医者があるとわざわざ差向けて下すったり、でも寿命のないものはどうすることも出来ません。長いあいだ患《わずら》った挙句、親父の私をたった一人この世に残して去年の暮れに亡くなってしまいました」  娘のことというと夢中になるらしい幸右衛門は、相手の身分の忙しいのも構わず、すっかり自分の述懐に溺《おぼ》れきるのでした。  平次はそんなことで打ち切って、 「この家の二階から、寮の二階を見せてもらいたいが——」 「ヘエ、どうぞ」  自分で先に立って二階に上がると、幸右衛門は窓を開けてなんのこだわりもなく平次に見せました。  窓と窓との間は三間あまり、飛び付くことなど思いも寄らず、締めきって大雪が降っていたから、向うの物音が聞えなかったというのも無理のないことです。 「八、向うの窓へ物干竿か、丸太を渡して歩けるかい」  平次は冗談らしく窓の下に立てかけた、植木の突っかい棒にする商売用の丸太を指しました。 「御免蒙りましょう、三足と歩かないうちにグラリと行きますよ。それに、丸太は二三十あるが、向うの窓に届くような長いのは一本もないし、一パイ雪を被って、引っこ抜いて使ったあともありませんぜ。 「物の譬《たとえ》だ、——そんな手もあるまいという話さ。なあ親方」  平次は後ろに立って、酸っぱい顔をしている幸右衛門を顧みました。  それから念のため家の中と外廻り、隣との関係を見せてもらって、外へ出ると、 「ところで八、あの番頭の身持と店中の評判を訊いて来てくれ」  平次はいきなりこんなことを言います。 「あの番頭は虫の好かない野郎じゃありませんか、あれが臭いんでしょう」 「そんなことは追って解るよ、——それから玉姫の多の市という按摩に逢って、ゆうべの様子を訊くんだ。盲目《めくら》はカンが良いから、佐野喜の主人の身体を揉んでいるとき、なにか変なことがなかったか、曲者が忍んでいるとか、——主人が変ったことを言ったとか」 「それだけで?」 「それで沢山だ——俺は三輪の兄哥に逢って訊きたいことがある。頼むよ八」 「合点」  八五郎は踵《かかと》に返事をさせるように、もう飛び出しております。     六  番所へ顔を出すと、三輪の万七とお神楽《かぐら》の清吉は、自分達の手柄に陶酔して、すっかり好い機嫌になっておりました。 「お、銭形の。兄哥が来たという話は聴いたが、とんだ無駄足で気の毒だったな」  万七の鼻は蠢《うごめ》きます。 「様子を見に来たんだが、——やはり勝の野郎が下手人だったのかい」 「まだ 白状はしねえが、御白洲《おしらす》で二三束打たれたら他愛もあるめえよ」 「証拠があるんだから文句は言わせねえ心算《つもり》さ。東禅寺前で夜泣き蕎麦《そば》を二杯も喰っているし——」 「刻限は」 「雪がチラリホラリ降り出した頃だというから、亥刻《よつ》〔十時〕少し前だろうよ。それから雪に濡れた草履が自分の家の縁の下に突っ込んであったし、手拭と袷を妹のお粂《くめ》が火鉢で一生懸命乾かしていたのさ」 「草履?」 「真新しい麻裏だよ。——雪の降る前に飛び出して、大降りになってから帰ったんだろう」 「そいつはとんだ間違いだ、もういちど念入りに調べ直してくれ。下手人は勝の野郎じゃないよ、兄哥」  と平次。 「なんだと、銭形の、——まさか俺の手柄にケチを付ける心算じゃあるまい」 「とんでもない」 「それじゃ手を引いてもらおうか。勝は八五郎の下っ引だったから、銭形の息は掛ってるだろうが、証拠のあるものを放って置くわけには行かねエ」  三輪の万七は屹《きっ》となりました。平次に対する反感で、逞《たくま》しい顔がサッと青くなります。 「証拠?」 「勝は夫婦約束までした嬉し野が焼け死んでから、ひどく佐野喜を怨んで、折があったら仇を討ってやると、友達中に触れ廻り、腹巻には何時も匕首《どす》を呑んでいたそうだ」 「殺した道具は脇差だぜ」  平次もさすがにムッとした様子です。 「手当り次第にやったのさ、匕首より脇差の方が都合がいい」 「真っ暗な二階で、よくそんな贅沢な道具を見付けたことだ。——ね、三輪の。俺は兄哥と張り合いに来たんじゃねエ。どう考えても勝の野郎のしたことじゃないから、ツイ飛び込んでお節介をしたまでのことだ。お願いだからもう一度調べ直してくれ」  平次はもう一度下手に出る気になったのです。が、三輪の万七は子分の清吉の見ている前もあって、そう簡単には打ち解けそうもなかったのです。 「存分に調べたよ、この上調べようのないところまで調べたよ。それで勝をしょっ引いたがどうしたんだ」 「弥八が殺されたのはどう考えても亥刻半《よつはん》過ぎだ、——下手人らしい足跡に雪が降っていなかったそうだから、引き揚げたのは夜明け近くだろう。勝が山谷にブラブラしていたのは、亥刻《よつ》そこそこだというじゃないか」 「それから暁方過ぎまでいたとしたらどうだ」 「あの大雪の中に一と晩立っていたのか」 「寮の中にいる術《て》もあるよ」  万七は頑として譲りません。 「それに、下手人の残した足跡は、足駄か高下駄だが、勝は草履をはいていたというじゃないか」 「穿《は》きかえたらどうする」 「まアいい、兄哥の言うのが皆んな本当として、——人を殺しに行く者が、夜泣き蕎麦《そば》を二杯も喰えるだろうか」 「肝の据《すわ》った野郎だ。呆れ返っているよ」  これでは手のつけようがありません。平次は尻尾を巻いて引き退るより外はなかったのです。 「そう言わずに兄哥」 「気の毒だが勝は口書を取ってお係りに引渡すばかりになっているんだ。助けたかったら、真物の下手人を挙げて来るがいい。銭形のお手際を拝見しようじゃないか」  万七は子分の清吉を顧みてニヤリとしながら、自棄《やけ》に煙管《きせる》を引っ叩きます。  平次は悄然として外に出ました。八五郎の面目のために勝太郎を救う工夫は容易につきそうもありません。  田圃の勝床を覗いてみると妹のお粂は浮かぬ顔をして客を断っておりました。 「あ、銭形の親分さん」 「お粂、気の毒だなア」 「親分さん、兄さんはやはり——」 「むつかしいなア」 「どうしましょう、私」  お粂は手放しで泣き出すのです。十九かせいぜい二十歳でしょうが、勝気らしい下町娘も、たった一人の兄が、人殺しの下手人で縛られてはひとたまりもありません。 「お前がなまじっか隠し立てをしたのが悪かったんだ。潔白なものならなにも細工などをすることはない、——勝はやはりゆうべ山谷へ行ったんだろう」 「え」  お粂はようやくうなずきました。 「帰って来たのは何時だ」 「雪が降り出してから——亥刻《よつ》少し過ぎでした」 「亥刻半前に帰ったことが判れば、勝は下手人じゃない。証拠があるか」 「私が——」 「お前では証人にならない。誰か知ってる者はないのか」 「さア」  お粂はハタと困った様子です。  それからいろいろと訊ねてみましたが、勝太郎を救うような手掛りは一つもありません。この上は、三輪の万七が挑戦したように、勝太郎以外の下手人を縛って突き出す外はなかったのです。     七 「親分、今帰りましたよ。あ、腹が減った」  ノソリと帰って来た八五郎は、火鉢の側へいざり寄ると、もうこんなことを言うのです。 「色気のない野郎だな、頼んだ仕事の方はどうだ」 「上々吉ですよ、その代り腹が減ったの減らねえの——」 「何がその代りだ」 「助けると思ってまず五六杯詰め込まして下さい。頼みますよ」  八五郎の望みに任せて、お静は膳を拵《こしら》えてやりました。 「何しろ、あれから働きずくめで、水を呑む隙もねエ」 「能書《のうがき》はそれくらいにして、どんなことがあったんだ」 「佐野喜へ行って、番頭の万次郎のことを訊くと、いやもう滅茶滅茶。奉公人どもは主人の悪いところは、皆んな番頭の入れ知恵だと思い込んでいやがる」 「で?」 「店の金だって、どれだけくすねているか解ったものじゃありません。万次郎の荷物を調べてみると、盗み溜めたらしい金がなんと三百両も隠してあるんだから驚くでしょう」 「それからどうした」 「どんな顔をするか見てやろうと、荷物をもとのままにして、山谷の寮から万次郎を呼び返してみましたよ。すると」 「……」 「店へ帰るといきなり、用事を拵えて自分の部屋へ入り、くすねて置いた三百両のうち二百両まで持ち出して、店の金箱へ返すじゃありませんか。稼《かせ》ぎ溜めた金なら、そんなことをするはずはない」  ガラッ八もなかなかうまいことに気が付きます。 「それからどうした」 「下っ引を呼びよせて、万次郎を見張らせ、あっしは玉姫の多の市のところへ行きましたよ。すると恐ろしい働き者で陽のあるうちから留守だ。仕方がないから行く先々を捜し廻って、按摩の笛の音をしるべに、ようやく捉《つか》まえたのは日が暮れそうになってから、——腹も減るわけじゃありませんか」 「無駄が多いなア、多の市はなんと言った」 「なんにも言やしません。あの家は年に二三度ずつお神さんを揉みに行ったきりで、主人を揉んだのは昨夜が始めてだそうで、お神さんは療治代の十二文の外に一文もくれたことがないが、主人はさすがに豪儀だ、黙って二百くれたということで——」 「それっきりか」 「ヘエ」 「佐野喜が按摩に二百文も出すのはどうかしていると思わないか、——俺が行ってみよう。多の市に逢ったら、なにか変ったことがあるかも知れない」 「これから行くんですか、親分」 「まだ日が暮れたばかりだ。できることなら、勝の野郎を番所へ泊めたくねえ。お前は疲れているなら、ここで吉左右《きっそう》を待つがいい」  平次は手早く仕度をして立上がります。 「冗談でしょう、あっしが行かなかった日にゃ勝の野郎に済まねエ」  ガラッ八は熱い番茶をガブリとやると、口の中に火傷をしながらもう足駄を突っかけております。  按摩の多の市を捜すのは、全く容易の業ではありませんでした。ようやく田町を流しているのを突き留めて、蕎麦《そば》屋へ入って一杯呑ませながら聴くと、十手より酒精《アルコール》の方が利いて、思いの外スラスラと話してくれました。 「佐野喜の主人は酒を呑んでいなかったのかい」  と平次。 「ヘエ、酒の気もありませんでしたよ」  多の市の答はまず予想外です。 「なにかものを言ったろう」 「なんにも言わないから少し向っ腹が立ちましたよ。世の中には無愛想な人間もあるものだが、あんなのはありません。もっとも二百も祝儀を出しゃ、石地蔵を揉んだって腹は立ちませんがね」 「あのお鶴という小さい娘が取次いだのかい」 「ヘエ」 「療治の間主人は眠ってでもいたのかい」 「とんでもない、心臓が悪い様子で、たいへんな動悸《どうき》でしたよ」 「外になにか不思議に思ったことはないのか。揉んでいてなにか物音が聞えるとか、他の人間の気はいがするとか」 「そう言えば、佐野喜の主人ともあろうものが、お召物がひどく粗末でしたよ」 「それっきりか」 「もう一つ、あの人はもと職人か百姓をしたことがあるでしょうか、手がひどく荒れていましたが」 「フーム」  平次は深々とうなずきました。     八 「来いッ八」 「どこへ行くんで、親分」 「下手人《げしゅにん》が判った」 「番頭の万次郎ですか」 「いや、主人を殺すくらいな奴が、後暗いことをしているはずはない。——お前に店へ呼び戻されてからあわてて銭箱へ二百両返すようじゃ、あの番頭は悪い奴だが人殺しはしなかった」 「じゃ誰です、親分」 「今に判る」  平次とガラッ八が山谷へ行った時は、寮はお通夜でゴタゴタしておりました。 「八、提灯《ちょうちん》を用意して来い」 「ヘエ——」  離屋へ行って提灯を借りて来ると平次は八五郎とたった二人で植木屋の幸右衛門の家へそっと入って行ったのです。 「なにをするんで、親分」 「探す物があるんだ」 「……」  平次はいきなり二階へ入ると、窓の張出しと手摺《てすり》を見ました。が、よく拭き込んでなんにもありません。隣の寮はお通夜のお経が始まったらしく閉めきった中から陰気な読経の声が漏れます。 「これだ」  平次は勝ち誇った声を挙げました。窓の下、畳の上にわずかばかり残った鋸屑《おがくず》を見付けたのです。 「鋸屑じゃありませんか」 「そうだよ、もう一つ捜すものがある」  階下へ降りて念入りに捜し廻ると、縁の下へ深く抛り込んだ切口の新しい一間ばかりの丸太が四本。 「占めたッ、もう大丈夫」  喜び勇む平次の眼の前に、何時どこから入って来たのか、植木屋の幸右衛門が、しょんぼりと立っているではありませんか。 「恐れ入りました、親分さん。勝さんが縛られたと聞いて自首して出る心算《つもり》でしたが、ツイ未練で遅れてしまいました。私を縛って下さい」  ヘタヘタと崩折れると、両手を後ろに廻してうな垂れるのです。 「幸右衛門、——なんだってもう少し早く名乗って出なかったんだ」 「一言もございません。命が惜しかったのです、——親分さん、——この私でなく、若い者の命が——」 「よしよし、神妙の至りだ。お上にも御慈悲がある、——ところで、なんだって、弥八を殺す気になったんだ」 「今朝申し上げたのはあれは、皆んな嘘でございます。私の娘のお歌は、弥八夫婦にいじめ殺されました。体の弱い者に、無理な勤めをさせ、少しでも休むと、物も食わせないばかりか、犬畜生にも劣った折檻《せっかん》をされ、とうとうもう助からないという大病人になってしまいました」 「……」 「そうなると、助からない病人の世話をして葬《とむら》いを出すのが馬鹿馬鹿しくなって、私に五十両という大金を苦面させて、死骸同様の娘を無理強いに親許身請をさせ、万一丈夫になった時は、二度の勤めをさせるという証文まで取って、ときどき医者をよこしました。鬼と言おうか、蛇《じゃ》と言おうか、あんな恐ろしい人間はありません。娘はそれを怨みつづけて血を吐きながら死んでしまいました」  そう語りつづけるうちに、幸右衛門は燃え上がる忿怒のやり場もなく、唇を噛み、拳を握って、はふり落ちる涙を横撫でに払うのでした。 「この夏お神さんの死んだのは——お前のせいではあるまいな」  と平次。 「あれは全くの自害でございます。寮へ来て、あの窓から私の家の二階を見ると、さすがに娘に済まないと思ったのでしょう。夜中にフラフラと死ぬ気になった様子です。——娘の怨みだったかもわかりません。——ところが主人の弥八はますます丈夫で、三人も妓《おんな》を焼き殺しても、虫を踏み潰したほどにも思いません。昨日などは私の顔を見ると、いきなり、お前の娘のお蔭で、大損をしたと喰ってかかる有様で——」  幸右衛門の憤激は果てしもありません。 「で、昨夜、雪の降る前に寮に忍び込み、弥八が酔って寝たのを見すまして、二階で刺したのだろう。——帰ろうとすると按摩の多の市が来た。断っても依怙地《いこじ》で帰らないから仕様事なしにお前が弥八の代りに揉んでもらって、なんとはなしに口止めの心算《つもり》で二百はずんだ」 「……」  平次の描いて行く事件の段取りは、実際と寸毫《すんごう》の喰い違いもありません。幸右衛門は口を開いて聞き入るばかりです。 「帰ろうとしたが、ちょうど大雪が降っていて、足跡を隠しようがない。幸いお前が手掛けた寮の植木の突っかい棒にする長い丸太が、寮の二階窓の下に立てかけてあったのを思い出し、そこから丸太の尖につかまって、三間も離れている自分の家の二階の窓まで飛び付いた。危い離れ業《わざ》だが、それでもお前は高い場所の仕事に馴れているから、どうやらこうやらうまく行った」 「……」  平次の推量の素晴らしさ、幸右衛門は自分のした事を復習されて、ただ呆気《あっけ》に取られるばかりです。 「自分の家の二階へ帰ったが、四間以上もある丸太をそのままにして置くとたちまち露見する。お前はそれを二階へ引き入れて、四つに切り落し、縁の下に抛り込んで素知らぬ顔をしていた。二階から二階へ丸太で橋を架《か》けることは俺もすぐ考えたが、丸太を大地に立てて、二階から二階へ飛び付く事は考えなかったよ」 「恐れ入りました親分さん。そのとおりに違いございません」  幸右衛門は板敷の上へ両手を突きます。 「ところで、雪の降る前にお前を誘い込んで、夜中過ぎ大雪になってからお前を送り出し、窓を締めたり、お勝手口へ足跡をつけたりした人間があるはずだ」 「それは親分さん、勘弁してやって下さい。姉を焼き殺された上、自分は牛馬のようにこき使われている可哀想な娘です。娘の母親は遠い親類の厄介になって、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ目に逢っていると、この間も手紙が来たのを見て、私ももらい泣きをしました。——あの娘はただ戸を締めて、足跡をつけただけです。たった十五になったばかりの娘が、姉の仇《あだ》を討つ気にでもならなければ、そんなことができるわけはありません。お見逃しを願います、親分さん。弥八を殺した下手人は私一人で沢山でございます」  幸右衛門は幾度も幾度も顔を床に摺り付けました。 「よしよし、なんにも知らなかったことにしよう。それから、俺に縛られたんじゃ、お前の命を助けようはない。見え隠れに八をつけてやるから、すぐ番所へ駈け込みうったえをしろ、お係り同心が出役になっているはずだ。——俺に言われたなんて、間違っても言うなよ。佐野喜の主人にはお上の憎しみがかかっている。御慈悲でお前の罪が軽くなれば、遠島か永牢で済むかも知れない、そうするとまた娑婆へ出て来る折もあるだろう。——あの娘のことは心配することはない、俺が引き受けて母親のところへ届けてやる」 「有難うございます。親分さん、神とも仏とも、——」  五十近い幸右衛門は恥も体面も忘れて大泣きに泣き入るのです。  隣の寮のお通夜の経はようやく済んだらしく、ザワザワと波立つような人の声が聞えます。  それを聴いたガラッ八の八五郎は、薄暗いところに引込んで、やたらと拳固で涙を拭くばかりでした。  平次の手柄に代えて幸右衛門は、佐野喜の主人の段々の不都合が知れて、下手人ながら江戸追放という軽い裁きを受け、平次が預っているお鶴をつれて、川崎在のお鶴の母を訊ね、そのまま土着して安らかに暮しているということでした。これはずっと後の話。この胸の透《す》く事件のお蔭で平次は手柄も褒美もフイにしましたが、その代りガラッ八と一緒に呑んだ正月は近年にない明るいものでした。  雛の別れ     一 「こいつは可哀想だ」  銭形平次も思わず顔を反《そむ》けました。ツイ通りすがりに、本郷五丁目の岡崎屋の娘が——一度は若旦那の許婚《いいなずけ》と噂《うわさ》されたお万という美しいのが、怪我で死んだと聴いて顔を出しますと、手代の栄吉がつかまえて、死にように不審があるから、一応見てくれと、いやおう言わさず、平次を現場へ案内したのです。  それは三月の四日、雛祭《ひなまつり》もいよいよ昨日で済んで、女の子にはこの上もなくうら淋しいが、華やかな日でした。桃は少し遅れましたが、桜はチラリホラリと咲き始めて、昔ながらの広い屋敷を構えた大地主——岡崎屋の裏庭からはお茶の水の前景をこめて富士の紫まで匂う美しい日、この場景とはおよそ相応わしくない、陰惨なことが起こったのでした。 「これはひどい」  平次はもういちど唸《うな》りました。二十一というと、その頃の相場では少し薹《とう》が立ちましたが、とにもかくにも、美しい娘盛りのお万が、土蔵の中、——ちょうど梯子段の下のあたりで巨大な唐櫃《からびつ》の下敷きになって、石に打たれた花のように、見るも無残な最期を遂げていたのです。 「あ、親分」  平次の顔を見ると、必死の力を出して、娘の死骸の上から唐櫃《からびつ》を取除けた父親の半九郎——岡崎屋の支配人——は気狂い染みた顔を挙げて、平次に訴えるのでした。その絶望的な瞳には、形容しようもない狂暴な復讐心が燃えるようでもあり、運命に苛《しいた》げられて、反抗することのできない檻の中の猛獣の諦《あきら》めがあるようでもあります。 「親分さん、あんまりじゃありませんか。お万の仇を討って下さい」  手代の栄吉はそっと袖を引きました。  唐櫃は骨董《こっとう》やガラクタ道具を入れたもので、旧家にこんな物のあることはなんの不思議もありませんが、その唐櫃のなかに、骨董品にまじって、巨大な漬物石が二つ——二三十貫もあろうと思われるのが入っていたのは奇怪で、その上二階の梯子段から少し離れて、安全な場所にあるはずの二つ重ねの唐櫃が、いつの間にやら手摺《てすり》の側に寄って、上のが一つ、欄干《らんかん》を越して転がり落ちたのは尋常ではありません。  見ると、唐櫃と一緒に二間あまりの長い綱で連絡した棒が一本と薄い板が庭に落ちており、その綱は有り合せの短かい縄《なわ》を三本も結び合せたもので、結び目がちょっとみると男結びに似た機結《はたむす》びだったことなどが、咄嗟《とっさ》の間に平次の注意をひきます。  お万の死骸は全く見るも無慙《むざん》でした。百貫近い唐櫃にひしがれて声も立てずに死んだことでしょう。 「親分さん、これがただの怪我や過ちでしょうか」  手代の栄吉の言うのも全く無理のないことです。  ともかくも、お万の死骸を家の中に移さして、これからひと調べという時、 「親分、大変なことがあったんですってね。なんだってあっしを呼んで下さらなかったんで」  はなはだふくれて飛び込んできたのは、ガラッ八の八五郎でした。 「八、そう言ってやる隙《ひま》がなかったのさ。まア、手を貸してくれ。いい塩梅《あんばい》だ」 「何をやらかしゃいいんで?」 「近所の噂を集めてくれ、いつものとおり」 「それだけですか」 「後は後だ。まずそれだけでいい」  平次は八五郎を追っ払うようにして、死んだお万にひどく同情を寄せている手代の栄吉から調べ始めました。     二  この男はもう三十を越したかもわかりません。典型的なお店者《たなもの》で、物柔らかな調子や、蒼白い顔や、物を正視することのできない臆病な態度など、岡っ引に取っては、くみし易い方ではありません。 「先代の旦那様は、安兵衛様とおっしゃって、一と月ほど前に亡くなりました。病気は卒中という見立でございました。若旦那の安之助様は、二年前から勘当され、潮来《いたこ》の遠い親類に預けっ放しで、親旦那様の御葬いにもお呼びになりません」 「世間並の道楽でもしたというのか」 「ヘエー、まアそんなことでございます——お万さんと一緒になるのが嫌だとおっしゃってツイ家を外になさいましたので、番頭さんへの義理で勘当なすったように世間では申しております」  栄吉はこれだけの事を言うのが精いっぱいでした。 「岡崎屋の身上《しんしょう》は?」 「私にはよく判りませんが、貸地家作、貸金がたいそうな額でまずざっと二万両——」 「それは大したことだな。跡取りはどう言うことになるのだ」 「大旦那様がたいそうお腹立で、若旦那様の勘当を許すとおっしゃらずに亡くなってしまいましたので、やっぱりお嬢様のお琴さんに御養子をなさることになりましょう」 「一番馬鹿をみたのは、番頭の半九郎だな。娘のお万が岡崎屋の嫁になり損ねた上、こんなに虐《むご》たらしく殺されては」 「ヘエ——」 「お万を怨む者はないのか」 「あるわけはございません、——陽気で話し好きで、皆んなに好かれておりました。嫌いだったのは若旦那だけで」 「若旦那の安之助は、そんなにお万が嫌いだったのか」 「ヘエ——」  それが嵩《こう》じて勘当されることになったのでしょう。 「口を利く親類は?」 「旧いお店《たな》ですが、江戸には遠縁の御親類が二三軒。あとは木更津や、潮来《いたこ》にあるだけで」 「支配人《ばんとう》の半九郎は、ただの奉公人か」 「いえ、遠い親類だと申すことでございます」 「ところで、この家に、田舎で育った者があると思うが——」  平次の問いは妙な方へ飛びます。 「下女のお文と、飯炊きのお今は田舎で育ちました。お文は房州で、お今は相模《さがみ》で、そんなものですね」 「男では」 「男は皆んな江戸生れです。支配人も、私も、与七さんも」 「その与七さんというのは?」 「先代が亡くなった大旦那と懇意《こんい》だったそうで、奉公人とも客とも付かず、三年前からおります」 「その男に逢ってみよう」  平次はひどく好奇心を動かした様です。  が、逢ってみて驚きました。暗がりから牛を曳き出したような男というのは、この与七のためにできた形容詞でしょう。一々噛みしめてから物を言うような、言葉も動きも、恐ろしくテンポの遅い人間で、二言三言話していると、ジリジリ腹が立って来るのです。 「お前さんは与七さんだね」 「ヘエ、——世間では——そう申します」  二十五六の良い若い者が、すべてこの調子で受け答えをするのでした。 「世間でそう言うから、与七みたいな気がするというのかえ」 「ヘエ」  平次はツイ、ポンポンやりました。ニヤリニヤリと薄笑いしながら、恐ろしく粘《ねば》った調子で、こんな歯切れの悪いことを言う人間を、平次は見たこともありません。 「けさお前は何をしていたんだ」 「いつものとおり、帳面をしておりました。家賃や地代の払わない分を纏《まと》めて、五日には一と廻りしなきゃなりません」  これだけのことを言うのに、ざっと四半刻《しはんとき》〔三十分〕もかかりそうです。この調子で地代家賃の居催促《いざいそく》をされたら相手はさぞ参るだろうと思うと、ポンポン言いながらも、平次はツイ可笑《おか》しくなります。 「お万は人に殺されたんだぜ。お前さんに下手人の心当りはないのか」  露骨に直截に言う平次。 「ヘエ、——殺されましたかな。——あの女ばかりは人に殺されそうもない女でしたが」 「なぜだい」 「ガラガラして、薄っぺらで、気軽で、尻軽で、人間が面白くて、浮気っぽくて」 「たいそう悪く言うんだね——お前も怨みのある方かい」 「御冗談で、——私はあんなのは虫が好きません——死んだ者を悪く言っちゃ済まないが、——もっとも、若旦那と来た日にゃ、顔を見るのもイヤだと言っていましたよ」 「お前さんとこの家は、どういう引っ掛りになるんだ」 「私の親父と、亡くなった大旦那は無二の仲でしたよ。——たったそれだけのことで」  噛みしめながら物を言う癖《くせ》に、この男は恐ろしく遠慮のないところのあるのをみて取ると、平次はもう少し突っ込んで訊く気になったのです。 「今朝、倉の扉を開けたのは誰だえ」 「栄吉どんの役目です。今朝に限ったことじゃありません。毎朝顔を洗うと、帳場から鍵を持って行って土蔵の大戸を開け、それから中へ入って、二階の窓を開けるんです」 「それから誰も倉へ入った者はあるまいな」 「そいつは判りません」  与七はキナ臭い顔をするのでした。 「ところで、外にかわったことはないのか」 「かわったことというと、この間から変なものが無くなりますよ」 「変なもの?」 「役にも立たないものが無くなるんで」 「例えば?」 「火箸《ひばし》が無くなったり、鉄瓶《てつびん》の蓋《ふた》が無くなったり、足袋が片っぽ無くなったり、貝杓子《かいじゃくし》が無くなったり、支配人の煙草入れが無くなったり、私の紙入れが無くなったり」 「フーム」 「まだたくさんなくなりましたよ。筆、墨、矢立、徳利、お嬢さんの手箱の鍵、用箪笥《ようだんす》の鍵、お今どんの腰紐、お万さんの簪《かんざし》、お文どんの櫛《くし》、——」 「それは大変なことじゃないか」 「もっとも、たいがい出て来ました。翌る日か、遅くて三日目くらいには、誰かが見付けます。簪が火鉢の灰の中に突っ立っていたり、擂粉木《すりこぎ》が仏壇の中にあったり、徳利が水甕《みずがめ》の中に沈んでいたり」 「みんな出て来るのか」 「中には二つ三つ出て来ないものもありますが、大概はつまらないもので、出なくたって大した不自由はしません」 「いつ頃からそんなことが始まったんだ」 「大旦那が亡くなって間もなくでしたよ」 「フーム」 「大旦那が亡くなった後で、支配人の半九郎さんが、有り金や証文を調べるとおっしゃって、家中から倉の中まで調べました。その後まもなく変な泥棒が始まったんです」 「誰かの悪戯《いたずら》かな」 「悪戯にしては念が入りすぎます。——もっともさいしょは鼠かと思いましたが、鼠は鉄瓶の蓋を抽斗《ひきだし》の中へなんか入れません」 「フーム、面白いな」 「ちっとも面白くはありませんよ」  この悪戯者には、与七も、ひどく腹を立てている様子です。 「で、その中でとうとう出なかったのは何と何だ」  平次の注意は細かく動きます。 「お文さんの櫛と、用箪笥の小抽斗の鍵が一つと、お今さんの足袋が片っぽと、——もっともこれはお文さんから新しいのをもらったようですから諦めが付くが、私の紙入れは出て来ません」 「いくら入っていたんだ」 「大したことじゃございませんが、それでも小粒で二両ばかり」  与七が怨み骨髄《こつずい》に徹するのはそのためだったのです。     三  平次はもういちど栄吉に逢ってみました。これは与七をあまりよくは思っていない様子ですが、それでも与七の言ったことは大体承認し、倉の戸を開けに行ったのも、二階の窓を開けたのも自分だが、朝は倉の中になんの変りもなかったと言い、その後では誰が入ったか知らないと言い張ります。  暮から小さい物の盗まれるのは、栄吉も苦々《にがにが》しく思っているらしく、これは誰の仕業《しわざ》にしろ、序《ついで》に平次に捜し出してもらって、うんと懲《こら》して頂きたいという意見です。  その時、 「親分、みんな判りました」  飛んで来たのはガラッ八の八五郎でした。 「何が判ったんだ」  平次は眼顔で誘って、倉の蔭の方に歩き出しながら、ガラッ八の集めた材料を訊きました。 「変な家ですぜ、この家は」 「変な家というと?」 「第一、先代の主人安兵衛は、卒中で死んだことになり、寺方で無事に葬式を受けたが、どうも尋常の死にようじゃないという者がありますよ」 「誰だえ、そんなことを言うのは?」 「横町の小唄の師匠で」 「横町の小唄の師匠は、なんだってそんなことを知っているんだ」 「与七が毎晩のように絞め殺されそうな声を出しに行くそうですよ」 「ヘエ——、あの男がね。人は見かけによらないというが、こいつはよらなさ過ぎるぜ」  暗がりから曳き出された牛のような、生活のテンポの恐ろしく遅い男が、黄なる声を出して小唄を唄ったら、一体どんなことになるだろうと思うと、平次もツイ吹出しそうになります。 「支配人《ばんとう》の半九郎は、先代の主人が死ぬとすっかり羽を伸ばして、今じゃ店中を切り廻しているが、親類中には半九郎の仕打ちが気に入らないものもあるから、いずれ一と騒ぎ始まるだろうということですよ」 「フーム」 「現に、この十日には親類が顔を寄せて岡崎屋の跡取りを決めることになっているそうで——」 「跡取りは勘当されて潮来《いたこ》にいる倅の安之助でなきゃ、娘のお琴だろう」 「先代の主人は、生きているうちに、安之助の勘当を許す気があったと言いますよ。卒中で不意に死んで、それを運び兼ねたが、遺言《ゆいごん》をするとか、遺言状を書く力があったらきっと若旦那の勘当を許したに違いないと——」 「そいつは誰の言葉だ」 「近所の衆は若旦那|贔屓《びいき》で、みんなそう言いますよ。許婚のお万をきらって、どうしても祝言しないばかりでなく、ツイ家を外にすることが多くなったから、亡くなった主人も支配人の半九郎(お万の父)への義理で、若旦那を勘当したに違いない。あのお饒舌《しゃべり》で浮気っぽくて容貌《きりょう》自慢で、若旦那とはまるっきり反《そり》の合わないお万と一緒にされるが嫌で、ツイ自棄《やけ》なことがあったかも知れないが、それくらいのことで勘当されちゃ若旦那の方が可哀想だ——とそれは御近所衆の噂で——」 「なくなった主人は、支配人の半九郎に、それほど義理があったのかい」 「主人の弱い尻を掴んでいるのだろうとか、主人の命の恩人だとか言いますが、本当のことは解りませんよ」  八五郎の持って来た材料《たね》はそれだけ。しかし思いのほか役に立ちそうな種だったことは、平次の会心の笑みにも見えるのでした。     四  平次は検屍に立会った上、一と通り家の中を見せてもらいました。本郷きっての大地主で、幾百軒とも知れぬ家作《かさく》持ちと言われるにしては、思いのほか質素な生活《くらし》ですが、どうしたことか店も奥も滅茶滅茶の荒しようで、壁が落ちたり、戸棚が引っくり返されたり、なにか大風の吹いた跡のような浅ましさを感じさせられるのです。 「何を探したんだ。——先代の隠した宝でも見付からなかったのかい」  平次は誰へともなく言いました。主人が死んで何千、何万という身上の隠し場所がわからなくて、天上も床も剥いだ浅ましい家を、平次は稼業柄《かぎょうがら》幾度も見ているのです。 「とんでもない。——先代大旦那の亡くなったのは急でございましたが、支配人の私が帳面も金も預っておりましたので、鐚一文《びたいちもん》も不審な金はございません」  どこで聴いていたか、支配人の半九郎は平次の不審に応えるように顔を出しました。娘のお万が非業に死んで、その打撃の重大さに押しのめされながら、それでも大家の支配人としての責任に目覚めて、辛くも事務的な心持に立還《たちかえ》ったと言った世にも痛々しい姿です。 「支配人さん、とんだことだったね。娘さんの敵はきっと討ってやるが、——私の訊くことに、何事も隠さずに話したもらいたいが、どうだろう」 「それはもう。親分さん、どんなことでも」  半九郎は、蒼い顔を挙げました。五十前後の柔和《にゅうわ》な男です。 「第一に訊きたいのは、亡くなった主人とお前さんの関係だ」 「ヘエ——」 「遠縁のつながりがあるとは聞いたが、その他になにか深いわけがあると思うがどうだろう」 「ひどい強請《ゆすり》に逢ってお困りのところを、少しばかりお助けしたことがありますが、外になんにもございません。唯よく判った御主人でございました」 「お前さんがここへ来てから何年になるんだ」 「三年でございます」 「もとは?」 「柳橋の船宿におりました」 「その前は」 「いろいろのことをいたしました」  平次はチラリと八五郎の方を振り向くと、心得た八五郎は、スルリと外へ抜け出してしまいました。半九郎の身許前身を、得意の順風耳で聴き出して来るつもりでしょう。 「ところで、隠した宝を探したんでなきゃア、なんだってこんなに家を荒したんだ」 「そのことでございます、親分さん」  半九郎の言うのはもっとも至極でした。それは先代の安兵衛が一度は自分達|父娘《おやこ》への義理で若旦那の安之助を勘当したが、もともと憎くて勘当した倅ではなく、いずれ許す気で時節を待っているうち、その機会はなくて、不意に死んだに違いない。 「——卒中で死んで遺言はありませんが、用心の良い御主人のことですから、遺言状くらいは書いて、どこかに隠して置いたかもわかりません。若旦那様を許すと書いた遺言状さえあれば、五日後に迫った親類会議も無事に済んで、若旦那を潮来《いたこ》から呼び戻されます。——私が家中を探したのは、遺言状を見付けたかったためでございます」 「……」 「岡崎屋の身上は、土地も家作も貸金も、世間で考えた倍もある上、現金だけでも三千両はございます。支配人の私がそんなものを探すわけがあるでしょうか」  半九郎は昂然《こうぜん》として頭を挙げるのです。 「なるほどそう聴けば立派なことだ。が、遺言状は?」 「困ったことに、ありませんよ。やっぱり若旦那は運がなかったんですね。たった一言許すと書いた遺言状がなければ、御親類方の手前、若旦那を跡取りに立てることもなりません」     五  娘のお琴は、病身らしい弱そうな体と、それにもまして弱い心の持主でした。十七というにしては智慧も遅く、何を訊いても埒《らち》があかず、ただ今朝は自分で雛壇《ひなだん》を畳んで雛の道具を土蔵へ運ぶはずだったが、気分が悪かったので止してしまって、下女のお文に頼んだところ、お万が手伝ってくれてとんだことになったということを、おろおろした調子で話すだけです。 「ところでお嬢さん、若旦那が潮来《いたこ》から帰らなきゃ、岡崎屋の血続の者というとお前さんたった一人だ。——この家に住んで淋しいようなことはありませんか」  薄暗い家の中の空気と、ひと癖あり気な奉公人達の中にたった一人取り残されたようなお琴の存在は、他から見てもなんとなく淋しくたよりないものだったのです。 「淋しいと思っても仕方がありません。それに、出代りで、今日はお文が帰ることになっています。あんなに私へよくしてくれたのに——」  お琴は本当に淋しそうでした。が、平次も慰めようはありません。  飯炊きのお今は四十がらみの相模女《さがみおんな》で、これはなんの技巧も上手もない女。 「けさ栄吉が土蔵の戸を開けてから、誰か入ったものはなかったのか」  平次の問いに対して、 「あったかも知れないが、ここからは見えませんよ」 「お前は機《はた》を織ったことがあるかい」 「ありますよ。田舎で育ったものは、一と通り嫁入り支度に稽古しますだ。私は木綿機しか知らないが、お文さんは絹機も上手に織ったそうですよ」  お今の答から、唐櫃《からびつ》を落した仕掛けの綱の結び目のことを、平次は考えていたのです。  それからまた家中の者を訊き廻りましたが、朝の一と刻は忙しいので、誰が倉へ入ったか見定めた者もなく、平次の骨折もなんの収穫もありません。多分唐櫃は前々から移して置いて、今朝ちょっとばかり仕掛けをして落したのでしょう。  最後に会ったのは下女のお文、十九というにしては柄も大きく、色の浅黒い、聰明そうな娘で、目鼻立ちもキリリとして、美しいという程ではなくとも、なんとなく人に明るさと頼母《たのも》しさを感じさせます。 「お前は今日帰るそうじゃないか」 「ハ、ハイ」 「奉公人の出代りは今日だろうが、この騒ぎの中から出られちゃ困るだろう。一応片づくまで帰るのを延ばしちゃどうだ」 「でも、あの、支配人さんが」 「支配人の半九郎が帰れというのか」 「……」 「ところで、今朝雛壇の片づけを手伝ったのは、お前のでき心か、それとも誰かに頼まれたのか」 「お雛様の始末だけは、いつでもお嬢様がなさいます。でも今日はひどくお気分が悪そうでしたから、私が手伝って上げると、お万さんも来て、一緒に片づけてくれました」 「倉へ行ったのは、お前が先だったというじゃないか」 「え、——私のは箱が大きくて入れなかったので、倉の入口でお万さんが先になりました」  その時のことを思い出したか、お文はさすがに顫《ふる》えている様子です。 「お前はこの家に何年奉公しているんだ」 「今日でちょうど三年になります」 「家へ帰りたいのか」 「いえ、——でも」  平次を見上げた賢こい眼には、涙を含んでおります。粗末な木綿物を着て、白粉っ気もないこの平凡な娘に、不思議に清らかな魅力を見出して、平次はいろいろのことを考えさせられました。  その日の調べは、それで切り上げる外はありません。最後に念のために、もういちど土蔵の中を見ましたが、二回の唐櫃の落ちたのはやはり悪者の巧みに企んだ仕掛けで、大きな雛の道具を入れた箱を持って、足元を見ずに登ったとすると、かならず第一段目で仕掛けの板を踏み、綱に加わった力が上に伝わって、危うく手摺《てすり》から乗り出させた唐櫃が、百貫近い重さで、ちょうど下にいる人間の頭の上に落ちるようになっていたのです。  お今に訊くと、漬物石《つけものいし》はよく洗って、階下の漬物倉に置いたもの。一つの目方が十貫近く、これを楽々と持ち運べるのは家中に幾人もありません。  帰る時支配人の半九郎に、下女のお文を宿へ帰さないように頼みましたが、どうしたことか半九郎はあまり好い返事をしてくれないばかりでなく、 「あの娘は悪い癖がありますから」  と露骨に嫌な顔を見せるのでした。     六  その晩、平次に代って、ガラッ八の八五郎が岡崎屋を見張りました。  支配人半九郎、掛人《かかりうど》与七、手代栄吉、下女お文、お今——などの身許調べは下っ引五六人を狩り出して、手いっぱいに働かせたことはいうまでもありません。 「八、若い女二人に気を付けろ」  平次が注意したのはたったそれだけ。八五郎はその意味が判らないながらも、下女のお文をお琴の部屋に一緒に寝かした上、自分はその隣の部屋に頑張って、とうとう夜を明かしてしまいました。ガラッ八の巨蛇《おろち》のような鼾声《いびきごえ》が、完全に若い女二人を護り通したのでしょう。  翌る朝、平次がやって行くと、八五郎はおよそ酸っぱい顔をして、何やら考えております。 「どうした八」 「あ、親分、お早よう。——とうとう逐《お》い出されてしまいましたよ」 「何が出されたんだ」 「あの娘が約束どおり暇を出されて、ツイ先刻宿元へ下った許りですよ」 「下女のお文か」 「帰る時、そっと私に渡して行ったものがあるんで」 「なんだい、それは?」 「もっとも、物をいう隙も、手紙を書く折もなかったが、これじゃまるで見当が付かねエ。ね、親分」 「娘が何を渡したんだ」 「これですよ、菱餅《ひしもち》が三つ」 「そいつはとんだ判じ物だね。鮑《あわび》ッ貝か何かなら恋と判ずるが——」 「冗談でしょう」 「菱餅じゃ古歌にもないとよ」 「ほんとうに何とか判じて下さいな、親分」 「どれ、見せな。——おや、おや、草色の餅と白い餅の間に、鍵の型が付いているじゃないか」 「ヘエ——」 「鍵の型があって鍵が無い——と」  平次の頭脳は忙しく働きました。昨日掛人の与七から聴いた話の中に、この間から店中でいろいろの物が無くなり、大概は変なところから現われて来たが、用箪笥の小抽斗の鍵と、お文の櫛と、与七の紙入れだけは出なかったということが、この菱餅の中に隠された鍵と暗合するのではなかったでしょうか。  小粒で二両入っていたという与七の紙入れは、往来か銭湯か、横町の師匠のところで紛失《なく》し、お今の足袋は犬でも咥《くわ》えて行ったとすると、この家で無くなった品で本当に発見されないのは、用箪笥の鍵と、お文の櫛と、たった二つだけになります。  お文の櫛は、お文自身が隠したものとして、もしその悪戯者がお文だったら、用箪笥の鍵の紛失の意味を隠すために、いろいろの愚にもつかぬ品を隠して、家中の注意を外らしたともみられないことはありません。  こう考えると、急に暇を出されたお文が、鍵のもつ重大な意味と、昨日までその鍵を隠しておいた場所を暗示するために、鍵の型の付いた菱餅を、ガラッ八に渡して行ったのではないでしょうか。 「八、お前はその菱餅をどう思う」 「あの娘は親切者ですよ。せっかくもらった菱餅を食う隙がなかったんで、あっしにくれて行ったんでしょう」 「馬鹿だなア。——その菱餅に大事な鍵が隠してあったんだ。——菱餅に隠した鍵は、節句《せっく》過ぎには見付けられる。——その時、お前ならその鍵をどこへ隠す?」 「懐中か、袂《たもと》の中へ入れますよ」 「支配人に身体を調べられるかも知れない——今までもそんなことが時々あったとしたら」 「さア」 「三日の夜か、四日の朝だ。雛を片づけながらの思案だから、——俺なら雛箪笥《ひなだんす》へ入れる」 「なるほどね」 「来い八」  二人はそっと倉の中に入りました。昨日仕舞い込んだ雛の道具の中から、高蒔絵《たかまきえ》の可愛らしい雛箪笥を見付けて、念のために振ってみると、中でカラカラと鍵が鳴っているではありませんか。 「八、このとおりだ。——俺はこの鍵で少し細工をしてみる。お前はこの倉の中で大きな声を出して人を集めてくれ。お万殺しの証拠が見付かったとか、なんとか言やあいい。家中の者が来たら、その唐櫃を落した仕掛けの綱を見せて、馬鹿なことでも饒舌《しゃべ》っていてくれ」 「馬鹿なことですか、親分」  八五郎は少し不服そうでした。     七  その日、平次は雛箪笥の中から見付けた鍵を、なんにも言わずに手代の栄吉に渡して帰りました。  それから五日目岡崎屋の親類会議が開かれ、先代安兵衛の遺言状もなんにもなかったために、勘当された若旦那の安之助は、やはり潮来《いたこ》から帰れないことになり、岡崎屋の家督は娘のお琴に婿を取って継がせることにし、半九郎はそのまま支配人として留ることに決定しかけた時でした。 「ちょっと待っておくんなさい」  銭形平次は、八五郎と下っ引二人をつれてようやくその席へ駈け付けたのです。 「銭形の親分、——この親類の話合いに、なにか不足でもあると言われるのか」  支配人の半九郎は屹《きっ》となりました。 「大不服だ」 「何?」 「用箪笥の奥の隠し箪笥にあった、先代の遺言状——倅安之助の勘当を許し、岡崎屋の家督、相違なく相嗣《あいつ》ぐべきもの也——という直筆に判を捺《お》したのを破って捨てたのは誰だ」 「えッ」 「俺はそれを察して、鍵を手代の栄吉に渡し、栄吉から支配人に渡すように仕向けた。もっとも真物《ほんもの》の遺言状を抜いて、用箪笥には写しの偽物を入れておいたとは気が付くまい。お前が破って捨てたのはその偽物の遺言状だったんだ」 「……」 「真物はこのとおり、ここにあるぞ。御親類方、この半九郎に騙《だま》されて、罪のない若旦那の安之助さんを日蔭者にしちゃいけません」 「……」 「まだあるぞ、半九郎。——たった一人残った岡崎屋の血統——お嬢さんのお琴さんを殺すつもりで土蔵に仕掛けた唐櫃、お琴さんが気分が悪くて、お前の娘のお万が行ったばかりに、あの虐たらしい死にようをしたのを忘れはしまい」 「嘘だ、嘘だッ——何を証拠に」 「死んだ娘の死骸の前で、もう一度それを言ってみろ。可哀想にお万は、親の悪心のために、罪もなくて死んでしまったのだぞ」 「嘘だッ」  半九郎は立上がって、自分の喉《のど》を掻きむしりながら皺枯声《しわがれごえ》で叫ぶのです。狂暴な眼玉が、今にも脱出しそうにギラギラと光ります。 「お嬢さんを殺し、若旦那を日蔭者にしてしまえば、岡崎屋の身上は、お前達|父娘《おやこ》のものになると思ったろうが、そうは行かないぞ。みろ、この綱の結び目、巧みに企んで機結びにしたのは、万一露見したとき、下女のお文にお嬢さん殺しの罪を背負《しょわ》せる気だったが、お文にはあの十貫目以上もある漬物石は運べない」 「……」 「お前は柳橋へ来る前、上州の機屋に長いあいだ奉公していたことを、下っ引が五日がかりで調べ上げて来ているぞ」 「嘘だ」 「嘘か、嘘でないか、お前の娘お万を殺したこの仕掛けの綱に訊けッ」  平次の叱咤の前に、一度は崩折れた半九郎は、目の前に投げ出された綱を見ると、何を感じたかガバと飛び上がりました。 「お万、——勘弁しろ、——お万」  バタバタと庭に飛び降りざま、生垣《いけがき》を越し、往来を突っ切って、お茶の水の崖の上から、数十尺したの水へ。——それは実に一瞬のできごとで、平次もガラッ八も、留めようもない凄まじい破局だったのです。  それから一と月余り経ちました。 「八、嫌な捕物だったな。——でも、岡崎屋の若旦那が潮来《いたこ》から帰って来て、房州からお文を呼び寄せ、嫁にする気になったのは嬉しいことだよ。亡くなった主人の遺言状を見付けて、それを支配人に気取られないようにいろんな物を隠して用箪笥の鍵を守り通したのは、ちょっと細工過ぎたが、俺は近頃あんな良い娘を見たことはないよ」  平次は岡崎屋の後の始末を噂に聴いて、つくづく八五郎にこう言うのでした。 「八の嫁にも、あんな娘を欲しいなア。どうだお静、お前の方に心当りはないか」  お勝手で働いている、まだ若くも美しくもある女房に、こう声を掛ける時は、平次の心持が一番|和《なご》やかで暇な時だったのです。  娘の役目     一 「八、なんか良い事があるのかい、たいそう嬉しそうじゃないか」 「ヘッ、それほどでもありませんよ親分、今朝はほんの少しばかり寝起きがいいだけで——」  ガラッ八の八五郎は、そう言いながらも湧き上がってくる満悦《まんえつ》を噛み殺すように、ニヤリニヤリと長んがい顎《あご》を撫で廻すのでした。 「叔母さんから纏《まと》まったお小遣いでももらった夢をみたんだろう」 「そんなケチなんじゃありませんよ、憚《はばか》りながら濡れ事の方で、ヘッ、ヘッ」 「朝っぱらから惚気《のろけ》の売り込みかい、道理で近頃は姿を見せないと思ったよ。ところで相手は誰だ、横町の師匠か、羅生門河岸《らしょうもんがし》の怪物か、それとも煮売屋のお勘子か——」  平次はそんな事を言いながら朝の膳を押しやって、貧乏臭い粉煙草をせせるのでした。 「もう少し気のきいたところで——」 「大きく出やがったな、年中空っ尻のお前が、入山形《いりやまがた》に二つ星の太夫と色事《いろごと》の出来るわけはねえ、それとも大名のお姫様の|うん《ヽヽ》と物好きなのかな」  お静は、二人の話のトボケた調子に吹出しそうになって、あわててお勝手へ姿を隠しました。  この上付き合っていると朝のうちから転げ廻るほど笑わされるのです。 「何を隠そう、ツイそこ——路地の入口の一件ですよ」 「あッ、お秀を張っているのか、悪いことはいわない、あれは止せ。第一お前には少しお職《しょく》過ぎるぜ」  平次がこう言うのも無理のないことでした。  神田お台所町——銭形平次が年久しく住んでいる袋路地の入口に、今年の春あたり引越して来た仕立屋の駒吉、その娘のお秀の美しさは、神田中に知らぬ者も無かったのです。  もっとも駒吉は三年前まで上野山下に大きな店を持って、東叡山《とうえいざん》の御出入りまで許された名誉の仕立て屋でしたが、ツイ近所の伊勢屋幸右衛門に押入った大泥棒熊井熊五郎の召捕りに、弥次馬の一人として飛び出し、元気に任せて助勢したばかりに、巨盗熊五郎に斬られて右の腕を失い、それから健康が勝れない上に、仕事も上がったりで、とうとう山下の店を人手に譲って、お台所町のささやかなしもたやに越し、娘のお秀の賃仕事で、ほそぼそと暮している五十男だったのです。  お秀はその時二十歳、父親の怪我やら家の没落などで、その当時にしては嫁《い》き遅れになりましたが、それが今では幸せになって、父親の介抱を一と手に、甲斐甲斐しく賃仕事をして、大した不自由のない日を送っておりました。親孝行で気性者で、そのくせ滅法愛くるしいお秀が、なにかにつけて近所の独り者の噂《うわさ》に上らないはずもありません。 「親分の前だが、これでも男の端くれですぜ。お職過ぎるは可哀想じゃありませんか」 「ほい、怒ったのか。——じゃまアお前とお秀は頃合いの相手ということにして、なんかこう手応えでもあったのかい」 「手応えどこの段じゃない、ドーンと来ましたぜ」  ガラッ八の八五郎は乗り出すのです。 「ま、待ってくれ。そう弾《はず》みが付いちゃ叶《かな》わない——まず膝っ小僧を隠しなよ。鉄瓶《てつびん》は沸《たぎ》っているんだぜ、そいつを引っくり返すと穏かじゃ済まない」 「そんな事は構やしませんよ。ね親分、お秀はこう言うんだ——私がこうして難儀しているのも、父《とと》さんが片輪になったのも、皆んな熊井熊五郎とか言う大泥棒のせいだから、私を可哀想だと思うなら、熊井熊五郎を縛っておくれ。八さんは十手捕縄を預っている立派な御用聞なんだから、それくらいのことが出来ないはずはない。首尾《しゅび》よく父さんの仇が討てたら、その時は——」 「その時はどうしたというんだ」 「あとは袂《たもと》で顔を隠しましたよ、ヘッ、ヘッ、いわぬが花で——」 「馬鹿だなア、お秀のつもりじゃ、その時は他所《よそ》へ嫁に行く——といいたかったのさ」 「そんな薄情なお秀じゃありませんよ、憚りながら——」  八五郎は少しムキになります。 「まアいい、三年前山下の伊勢屋で掛人《かかりうど》の浪人者を斬り殺し、隣の仕立屋駒吉に傷を負わせて逃げた熊井熊五郎が近頃また江戸に舞い戻って御府内を荒しているようだ。三年前は取り損ねたが、今度という今度は逃がすこっちゃねエ、現に笹野《ささの》の旦那も、昨日お役所でお目にかかると、熊井熊五郎といったような筋の悪い曲者が御府内を荒し廻るのは、御上の御威光にも拘《かか》わることだ、何とか一日も早く召捕って、江戸中の町人どもに安心させるようにというお言葉だ。お秀坊の話が出なくても、俺はその事で今日はあっちこっち飛び廻ろうと思っている。ちょうどいい塩梅《あんばい》だ、お前も精いっぱい手伝ってくれ」  平次の話はいよいよ真面目な軌道に乗って来ました。 「ヘエ、やりますよ。お秀坊の御褒美付きだ、なんでも言いつけて下さい」  八五郎は夢中になってニジリ寄ります。     二  巨盗熊井熊五郎の活躍は、江戸中の手先御用聞を奮起させました。この曲者を首尾よく縛ることが出来れば、八五郎はお秀を手に入れるかも知れず、御用聞としては一世一代の誉れにもなるでしょう。  熊五郎が江戸を荒し始めたのは、かなり古いことで、元は上方から来たとも言い、甲州から入ったとも伝えますが、ともかく過去十年の間に、ざっと九十カ所も荒したことでしょう。一説に熊井熊五郎は日本国中の泥棒の大親分になるため、仲間の重立ったものと賭《か》けをして、江戸の第一流中の一流という大町人、有徳《うとく》の有名人、お役付の武家などを百人選び、百軒を全部荒して一万両を盗むという大願を立てたのだとさえ伝えられた程です。  ところが今から三年前、上野山下の呉服屋伊勢屋幸右衛門の家へ忍び込んで見露《みあら》わされ、多勢の番頭手代に包囲された上、伊勢屋の居候浪人白井右京に土蔵裏に追い詰められましたが、熊五郎はあべこべにこれを斬り殺し、ちょうどそこへ駈けつけた、隣の仕立屋の主人駒吉の右の腕まで斬り落して逃げ亡せてから、ハタと消息を絶って、この春までは熊五郎のクの字の噂も聞かなかったのです。  それが、三年経った今年の夏あたりから、またもや江戸に舞い戻って、荒し残した大町人有名人の家を、虱《しらみ》つぶしに荒し始めたのでした。  父親の片腕を切られて、それから裏長屋に引込むほどに落ち果て、二十歳《はたち》娘の手内職で父娘二人ほそぼそと暮しているお秀が、少し人間が甘口に出来た八五郎を捉《つか》まえて、愚痴《ぐち》交りに頼むのも無理のないことだったでしょう。 「親分、この十年のあいだに熊五郎が荒した場所と家の名をざっと調べてもらって来ましたよ。このとおり」  翌る日、八五郎が八丁堀の組屋敷で調べた熊井熊五郎の犯跡《はんせき》を、半紙三枚ほどに書き連ねたのを持って来ました。 「どれどれ、十年前から始まって、足掛け三年前に伊勢屋へ入るまで八十二軒か、盗った金は三千二百両——思いのほか少いな、あやめた人間は十七人、殺したのだけでも九人だ——フム」  平次は唸《うな》りました、これは全く捨ておき難い兇悪振りです。 「でも、十年前のは親分やあっしの知ったことじゃありませんよ」 「だが、この夏からもう七軒に押入っているぜ。町年寄りの奈良屋市右衛門《ならやいちえもん》、朱座《しゅざ》の淀屋甚太夫《よどやじんだゆう》、銀座の小南利兵衛、油屋の大好庵《だいこうあん》、米屋の桑名屋、紙屋の西村、仏師の大内蔵——皆んな公儀御用の家ばかりだ」 「それに盗った金は四千五百両——先の九十軒より多いのは驚くでしょう。その代り今度は殺されたのも怪我人もねえ」 「それだけ熊五郎が巧者《こうしゃ》になったのさ、——おや、待ってくれ。熊井熊五郎が押込みに入るのは、不思議に六の日が多いじゃないか、五月六日に二十六日、六月十六日、七月六日、二十六日、八月十六日、九月六日——」 「親分が休む日だ」  八五郎の発見は重大でした。岡っ引は休みがあるわけは無いのですが、それでも月に三度、六日と十六日、二十六日だけは骨休みをして、好きな盆栽《ぼんさい》をいじったり、八五郎とザル碁《ご》を闘わしている平次は、その日に限って熊井熊五郎が出動することを知ったのは、単純な暗合やなんかで無いことは、あまりにも明らかです。 「明日は十月の六日だね、親分」 「フーム、ちょうど紅葉《もみじ》でも見ながら王子の稲荷様へお詣りしようと思ったが、これを見ちゃ休んでもいられめえ。朝のうちに八丁堀へ行って、笹野の旦那と打ち合せ、昼から夜へかけて心当りの場所を廻ってみるとしようか」 「心あたりというと?」 「熊五郎の荒した家は、江戸で家元とか本家とかいう大町人の家ばかりだ。『江戸諸用細見図』という書物の中には、そんな大町人の名前がズラリと並んでいるよ。熊五郎がまだ荒さない家はいくらもあるまいから、そこを一つ一つ見張らせるんだ」 「なるほどね」  今まで熊井熊五郎を追い廻した老巧の御用聞、三輪《みのわ》の万七もそこまでは気が付かなかったのでしょう。 「それじゃ頼むぜ、八。明日の十月六日は大事だ、帰って一と休みするがいい」 「それじゃ親分」  八五郎はフラリと外へ出ました。五日月はもう白々と中天に懸って、袋路地も鳩羽色《はとばいろ》にたそがれた中に、何やら艶《つや》めくもの——、 「お秀じゃないか」 「あら、八さん」 「何をしているんだ」 「……」 「もう薄寒いぜ、若い女が一人で外にいる時刻じゃねえ」 「父さんは機嫌が悪いんですもの、身体が不自由だから無理もないけれど——」  お秀は可愛らしい顎《あご》を襟《えり》に埋めて、シクシク泣いているのです。 「心配するなってことよ、お前の父さんの仇《かたき》はきっと取ってやるぜ、——そう言っただけじゃ安心が行くめえが、捕物にかけちゃ江戸開府以来といわれた銭形の親分が、いよいよ乗り出すことになったんだ」 「まア」  お秀の白い顔が、八五郎の顔へ近づくと、香ばしい息が八五郎の無精髯《ぶしょうひげ》の頬を爽《さわや》かに撫でるのでした。 「それによ、さすがは銭形の親分だ。この仕事に手を着けると決まると、たった一日でお前いろんな事が判ってしまったぜ」 「いろいろの事?」 「そいつはまア言わねえ方がよかろう。とにかく明日からいよいよ熊五郎退治だ」 「嬉しいわねえ、それもこれも八さんのお蔭よ。父さんの仇が討《う》てたら、私きっとお礼をするわ」 「なアーにそれに及ぶものか、悪者を縛るのがこちとらの稼業《かぎょう》だ」 「でも私はお礼をしなきゃ心持が済まないもの、——それから、時々どんな様子か、そっと知らせて下さるわねエ」 「呑込んでいるよ」  八五郎はツイ、そう言いながらお秀の肩をポンと叩きました。処女《おとめ》はハッと驚いた様子で、八五郎の手を掻《か》いくぐるようにバタバタと駈け出しましたが、自分の家の貧しい入口に立つと、間の悪そうに路地の外へ出て行く八五郎を見送って、淋しくやるせなくニッコリしました。     三  その晩、熊井熊五郎は、尾張様《おわりさま》御呉服所、日本橋二丁目の茶屋新四郎の奥へ押し入り有り金八百両を奪い取った上、帰り際の邪魔をした、手代の甚三郎というのを斬りました。  熊五郎の活動をいつも六の日と鑑定した銭形平次の智慧の裏を行って、その前の晩——十月五日の夜中を選んだ鋭さは、さすがの平次も舌を巻きました。こんな恐ろしい人間が相手では、ガラッ八が褒美にありつくことなどは思いも寄りません。  二丁目の茶屋新四郎へ行ってみると、三輪の万七が、子分のお神楽《かぐら》の清吉をつれて早くも駈けつけ、血眼の調べの真っ最中でした。 「おや、三輪の兄哥。笹野の旦那の申し付けで、俺も覗きに来たが、相変らず熊五郎の手口だろうな」  平次は先輩の万七に対しては、いつでもこんな調子でした。 「銭形か、——こいつばかりは兄哥でもわかるめえよ。どこからどうして入ったか、まるっ切り見当も付かないんだ。戸締りに変りはないし、縁の下にも天窓《てんまど》にも人間の潜《もぐ》り込んだ跡はないんだぜ」 「仕事をして出たのは?」 「夜中にいきなり店番をしていた手代の甚三郎を叩き起こし、雨戸を開けさせて悠々《ゆうゆう》と出て行ったそうだ。覆面《ふくめん》のまま懐ろ手かなんかで顎で指図をするから、あんまり癪《しゃく》にさわって、甚三郎が追っかけて庭まで出ると、——馬鹿奴ッ、神妙に引込んでおれ——と振り返りざま一刀を浴びせたそうだ。五日月が落ちた後だから、外は真っ暗で、家の中からはなんにも見えなかったというよ」  三輪の万七はそれでも一応の説明はしてくれます。平次はいちおう主人の新四郎始め番頭手代達にも逢ってみましたが、三輪の万七が話してくれた外にはなんの変ったこともありません。  手代の甚三郎の死体を見せてもらうと、傷は右の肩先から左へ、——斜袈裟《ななめけさ》掛けに二三寸斬り下げておりますが、振り返りざま抜き討ちに斬ったにしては見事な腕前です。 「熊五郎が人をあやめたのは、今度は始めてだな」 「だから最初は熊五郎じゃ無いかも知れないと思ったが、入った場所のわからないところをみると、やはり熊五郎の手口だ。他の泥棒ならどんなに巧《うま》くやっても忍び込んだ場所が判るものだ、雨戸をコジあけるとか、格子《こうし》をはずすとか、土台の下を掘るとか、窓わくに跡《あと》を残すとか——熊五郎に限ってそれが一つもない」 「明るいうちに潜り込む術《て》もありますぜ」  ガラッ八の八五郎は嘴《くちばし》を容《い》れました。 「暮れ六つには店を閉めて、多勢の奉公人が手分けをして掃除をするんだぜ。顔を知らないのが一人でもマゴマゴしていりゃ、すぐ大騒ぎになるじゃないか」  お神楽の清吉が弾ね返すように言いました。八五郎とはどうも反《そ》りが合いません。 「八五郎兄哥の考えも一と理窟《りくつ》だ。宵に忍び込んで夜中に仕事をする曲者もよくある例《ため》しだが、熊井熊五郎が十年越し荒した跡を一つ一つ調べてみると、そんな生優しいことじゃ無いのだよ。昔は熊五郎が仕事に入る家へ前もって何月何日参上すると、手紙で先触れした例もあるが、昼のうちから多勢の人に見張らせて、虫一匹入らないように用心しても、夜中にはチャンと入って来て、狙《ねら》った品を盗って行くのだ。それを邪魔立てする者は、きっとやられた——そういう相手だよ、八五郎兄哥の智慧でも、この謎は解けめえ」  三輪の万七はそう言って冷たい笑いを頬に漂《ただよ》わせるのです。八五郎がどんなに口惜《くや》しがっても、昔の事を知らないだけに歯が立ちません。  しかし三輪の万七も何時までもガラッ八をからかっている気はありませんでした。熊井熊五郎という稀代《きだい》の兇族を相手にしては、十年間の経験でも自分一人だけでは覚束《おぼつか》なく、やはり銭形平次の智慧と力を借りるほかは無いことはあまりにもよく解っているのでした。  その日のうちに、江戸中の浪人者で、背の低い、腕の達者な、中年過ぎの、生活の贅沢《ぜいたく》な、身性のはっきりしない者は、町方の手で一人残らず調べ上げられ、昨夜の十月五日に家を開けたものはいうまでもなく、近頃六の日に行動の怪しかった者は念入りな詮議を受けました。  鍋町に住んでいる手習師匠の某《ぼう》、お玉ガ池の用心棒で評判のよくない某、入谷の浪宅に燻《くす》ぶっている押借《おしかし》の常習犯で某と、十人ばかりの札付の浪人者が、町方の手で挙げられましたが、いずれも確かな現場不在証明《アリバイ》があって、この虱《しらみ》つぶし案も失敗に終りました。     四 「あら、八さん」 「お秀か、まだお前に喜んでもらうような話はないよ」 「そんなことじゃないわ——あの、私にもお手伝いの出来ることはありませんかしら」  今日もほの暗い路地の中に八五郎の帰りを迎えて、お秀は極り悪そうにこういうのです。父親の駒吉に似た小柄ですが、愛嬌《あいきょう》があってキビキビして、すぐれた気性を内に包みながら、なんかこう透《す》き通るような清らかさと、沁《にじ》み出すような魅力を感じさせる娘でした。 「そいつは無理だ、大の男でさえ命がけの仕事だもの。お秀さんのような綺麗な人が出る幕じゃねえ」  ガラッ八の八五郎は、少しムキになって、八つ手の葉っぱのような大きな掌《て》を振ります。 「でも、父さんがそりゃ気をもんで、ろくに身動きも出来ないくせに、ときどき飛び出そうとするんですもの」 「銭形の親分が乗り出しているんだ、もう一度熊五郎が動き出しゃ、間違いなく縛られるよ。安心して待っているように、とそう言ってくれ」 「有難う、八さん」  お秀はそう言って、あわてたように家に入りました。まごまごしているとまた八五郎に肩くらいは叩かれるかも知れないのです。  八五郎はこれだけ請《う》け合ったにかかわらず、熊五郎の跳梁《ちょうりょう》は次第に激しくなりました。 「さア、大変だ、親分」  八五郎が飛び込んで来たのはそれから十日経った十月十七日の朝でした。 「熊五郎がどこかへ入ったのだろう」  昨日の十六日は精いっぱいの用心をして、夜遅くなって帰った平次は、朝今はもう不安な予感にさいなまれて、薄暗いうちから起き出して、八五郎の来るのを待っていたのです。 「小川町の御旗本、千二百石取りの篠塚金之助《しのづかきんのすけ》様の御屋敷に入り、五百両の金を取って大玄関を開けて逃げ出しましたよ」 「篠塚金之助——それはお前、三年前に熊五郎が一度忍び込んだお屋敷じゃないか」 「あの時は首尾よく忍び込んだが、用人に見付けられて騒ぎ出され、御主人金之助様に追われて、熊五郎ほどの者も這々《ほうほう》の体で逃げ出しましたよ。金之助様は一刀流の達人だ」 「そんな事もあったな」 「こんどはその仕返しに入ったんでしょう。ふてえ奴じゃありませんか」 「ともかく行ってみよう」  平次は手早く支度をすると、八五郎を促《うなが》し立てるように小川町に向いました。  篠塚金之助というのは、有福で聞えた大旗本で、屋敷も小川町の一角を占め、小さな大名ほどの暮し向きに見えます。平次と八五郎は裏口から恐る恐る入って行って、用人に逢って一応調べさしてもらうつもりでしたが、町方の者というとまるで相手にしてくれません。 「それぞれ御支配のあることだから、当屋敷の出来事は、お係りの方へ届け出る。気の毒だが町方役人は引き取ってもらいたい」  という挨拶。旗本の取締は若年寄りの役目で、町方の岡っ引などはまるっ切り歯が立たなかったのです。 「わけのわからねえ唐変木《とうへんぼく》じゃないか、泥棒を捜し出して、あわよくば盗まれた金を取り戻してやろうというのに——」  八五郎は屋敷の外へ出ると、道の小石を蹴飛《けとば》したり、羽目板を叩いたり、立った腹のやり場に困る様子ですが、 「怒るなよ八、千二百石取りの大旗本じゃ歯が立たねえ」  平次はなだめなだめ帰るのです。 「ヘッ、三輪の親分とお神楽の清吉も神妙な顔をして裏口から入って行きますぜ。同じ剣突《けんつく》を食わされるんだろう、——いい気味だ」 「馬鹿野郎、そんな事をいう奴があるものか、十手の誼《よし》みだ、ちょいと気をつけてやるがいい」  平次は八五郎を走らせて一応注意させましたが、手柄争いに夢中になっている万七と清吉は、それをどう解釈したか、体もよく、八五郎の注意を断って、篠塚の屋敷へ入ってしまいました。 「チェッ、親分の気も知らねえで、勝手に恥を掻きやがれ」  八五郎の膨《ふく》れること。  これを一|挿話《そうわ》にして、熊井熊五郎はいよいよ最後の飛躍を企てたのです。それから八日目の十月二十五日に、銭形平次の家にこんな手紙が投げ込まれました。  明十月二十六日、上野山下の伊勢屋幸右衛門の家に押入り、千両の金を無心するつもりだ。これで熊井熊五郎の百軒から一万両盗む大願は成就《じょうじゅ》する。伊勢屋幸右衛門へは三年前に一度押入り、居候浪人白井某と隣の仕立屋駒吉を斬ったが、こちら焙ャ縮尻《しくじ》って一文も申し受けなかった。今度はその埋め合せに、千両の金を申し受ける。夢々疑うこと勿《なか》れ。あなかしこ  平次どの 熊井熊五郎  と世にも人をなめた文句です。 「畜生ッ、人を馬鹿にしやがる」  八五郎は躍起となっていきり立ちますが、 「待て待て飛び出す前によく考えることだ。これだけの事を前もって知らせるのは、容易ならぬことだ」  平次はジッと腕を組んで考え込みました。     五 「八、お秀の家へ行ってみようと思うが、お前も行くか」 「ヘエ——?」 「三年前伊勢屋へ熊五郎が入った時の様子や、駒吉が斬られた時の事を詳しく訊きたいんだ」 「行きましょう、親分」  ガラッ八は大乗り気でした。  路地の入口、ささやかなしもた屋に駒吉を訪ねると、床を敷きっ放しの二階に通して、お秀にお茶などを入れさせながら、いろいろ話してくれました。駒吉というのは、まだ五十そこそこでしょうが、怪我をしてから滅切《めっき》り年を取って、半分は寝ているらしく、みたところ六十近いような、一と握りほどの中老人です。 「右腕は熊五郎に斬られて、このとおり付け根からありませんが、ろくに身の廻りのことも出来ません。身に覚えた仕立てなどは、片手業《かたてわざ》で出来るはずもなく、伊勢屋さんのお情けで少しばかり仕事を廻してもらい、娘が夜の目も寝ずに働いて、やっと二人口を過ごしております。それもこれも熊五郎の仕業で——」  駒吉はいろいろと立ち働くお秀の後姿を眼で追いながら腑甲斐《ふがい》なくも涙ぐむのです。  三年前までは山下で良く暮していたので、昔の俤《おもかげ》を忍ぶ調度はいくらか残っておりますが、その日の暮しに追われるらしい様子で、その辺の道具も着物もひどく不調和です。お秀はさすがに娘盛りで、赤い可愛らしいものを身に着けておりますが、それも何となくチグハグで哀れ深い姿でした。  いろいろ慰めて、二人は起ち上がりました。八五郎を一足先へやって、駒吉になんか言い残した事を話していた平次は、梯子段の入口と間違えて、いきなり押入の唐紙《からかみ》を開けましたが、 「あッ、これはとんだ事をした」  あわてて閉めて、梯子段を降りて行きました。下では八五郎がお秀をつかまえて、何やらしんみり話し込んでおります。多分こんなヘマでもやって、少しでも二階で手間取り、八五郎とお秀が差し向いで話をする時間を、少しでも多く作ってやろうという親切だったかもわかりません。     六  その晩から翌る日にかけて、上野山下の伊勢屋の騒ぎは大変でした。三戸前の土蔵のうち、一番小さくて厳重な土蔵に、何万両とも知れぬ現金を入れた上、大切な道具類、諸大名から預った反物などをことごとく詰めこみ、翌る二十六日の夕刻には、厳重に錠前をおろして、番頭と手代と出入りの鳶《とび》の者職人衆などが、交代で張り番をすることになりました。  三輪の万七とお神楽《かぐら》の清吉は、早くから来て頑張り、出入りをやかましく言いましたが、何分多勢の奉公人や客のことでもあり、半日でヘトヘトに疲れて、夕刻にかけてはもうお義理だけの見張りになってしまったのも無理のないことです。  平次と八五郎は、そんな情勢を知らぬ顔に、日が暮れてからフラリとやってきました。 「銭形の兄哥、大層ゆっくりだね」  三輪の万七は少しばかり中っ腹でした。 「泥棒はどうせ日が暮れてからだ。ね、そんなものじゃありませんか、三輪の親分」  ガラッ八は挑戦的です。 「馬鹿野郎、余計な事をいうな」  平次はそれをたしなめました。  それから二刻あまり、重大な謎をはらんだまま、江戸の夜は静かに更け渡ります。  やがて亥刻半《よつはん》〔十一時〕とも思う頃、母屋《おもや》の方からドッと声が挙がりました。 「親分、大変ッ。熊五郎がどこからか出て納戸《なんど》へ隠れましたよ。あの腕利きだからうっかり飛び込めねえ、早く来て下さい」  八五郎は息せき切っております。 「よしよし騒ぐな、納戸の戸はどうした」 「内から締《し》めて開けさせません」 「それじゃ、三輪の兄哥、母家へ行ってみるか」 「よかろう」  三輪の万七は清吉と一緒に母家へ飛んで行きます。 「八、お前はここで頑張ってくれ」 「ヘエ——?」  八五郎は少し不平そうでした。 「それから土蔵の扉を八文字に開けるんだ」  銭形平次は大変なことを言い出します。 「大丈夫ですか」 「そして、土蔵から一番先に出て来た奴を縛るんだ」 「ヘエ——」 「ぬかるな八、一番先に出たのだよ、逃すな」  平次はそのまま母家へ飛んで行きました。  取り残された八五郎は土蔵の扉を開けて、真っ暗な中と睨めっこをしたまま、不安な心持で遠く母屋の騒ぎを聞いております。  不意に土蔵の中から飛び出した者が、 「あッ、待てッ、待て」  八五郎は猟犬のように飛び付いてその肩を押えました。 「八さん、御苦労様ねエ」 「あッ、お前はお秀じゃないか。何をしていたんだ」 「お手伝いに来たのよ、平常《ふだん》伊勢屋さんのお世話になっているんですもの、——先刻このお蔵の中へお道具を出しに入ったまま、閉められてしまったじゃありませんか」  お秀はそう言いながらいそいそと母屋の方へ駈けて行くのです。 「あっ、待ってくれ、お秀」  呼んでも追い付くことではありません。  まもなく母屋から平次も万七も清吉も、番頭手代達も戻って来ました。 「大縮尻《おおしくじり》よ、曲者を納戸に封じ込んだつもりで安心しているうちに、納戸の格子を二本叩き斬って飛び出してしまったのさ」  こう言うのは平次です。 「こっちも大笑いでしたよ」  と八五郎。 「土蔵からなんにも飛び出さないのか」  平次はせき込みます。 「飛び出しましたよ、そいつは思いも寄らない人間なんで、ヘッ、ヘッ」 「何? 飛び出した、そいつを捉《つか》まえなかったのか」  平次は顔色を変えました。 「だって土蔵からパッと出たのはお秀じゃありませんか、——お手伝いに来て、道具を出しに入ったまま閉められたんですって」  八五郎にはなんのこだわりもありません。 「あ、それで解った。来いッ、八」  平次は夜の街を一散に飛びました。呆気に取られて口を開いたままの万七や清吉を後に残して——。     七  お台所町の路地の入口まで来ると、 「八、お前は外で見張れ、——今度こそ間違いもなく、第一番に飛び出した奴を縛るんだぞ。油断するな」 「お秀坊が泥棒ですか、親分」 「今にわかる」  言い捨てて平次は駒吉お秀|父娘《おやこ》の小さい家へ飛び込んだのです。ただ、そこで平次を迎えたのは娘お秀がたった一人、行灯《あんどん》の前に慎ましく坐って、観念し切った姿です。 「駒吉はどうした」 「……」 「親父《おやじ》はどこへ行った」 「知りません、親分」  見上げたお秀の眼はいたいたしくも涙に濡《ぬ》れております。 「お前が帰った時はまだここにいたはずだ」 「……」 「隠すな、お秀」 「え、皆んな申し上げます。父《とと》さんは百軒目の大願成就《たいがんじょうじゅ》の日だから銭形の親分の鼻をあかせるんだといって、つまらない手紙なんか出したので、私は一生懸命父さんにお願いして、代って行きました。気ばかり強くたってあの身体で、銭形の親分さんに狙《ねら》われては、助かりようはないと思ったのです。——私は日の暮れる前に店の人のような顔をしてそっとあの土蔵に忍び込みましたが、家で留守をするはずだった父さんは、私のことを心配して、後から出かけて行って母屋の方に忍び込んであの騒ぎを始めたのです。その間に私は八さんを騙《だま》してここまで逃げて来ましたが——」 「それで、父親はどうした」 「親分、私を縛って下さい、私が熊井熊五郎です。お願い——親分」  お秀は自分の手を後ろに廻して崩折《くずお》れるのでした。  仕立屋駒吉こと、兇賊熊井熊五郎は、まもなく東海道筋で捕えられ、江戸に送られて処刑《おしおき》になりました。娘お秀は平次の情けに護られて、辛《から》くも縄目を免《まぬか》れましたが、八五郎の心持を無視して、どこへともなく姿を隠してしまったのです。多分|有髪《うはつ》の尼《あま》で一生をおわるつもりでしょう。  平次が路地の入口に住んでいる駒吉に疑いを向けたのは、自分の動きがあまりによく見張られていることに気が付いたのが最初で、それから茶屋新四郎の手代甚三郎が斬られたのは、右肩先から斜大袈裟《ななめおおげさ》で、振り返りざま曲者が斬ったとすれば、刀は左に持っていなければならぬはずと覚《さと》ったためでした。その上、駒吉を見舞ったとき、間違った振りをして押入を開け、その中には思いもよらぬ贅沢《ぜいたく》な品々のほかに、特殊の脇差《わきざし》、懐提灯《ふところじょうちん》、縄梯子《なわばしご》、覆面頭巾《ふくめんずきん》などという忍術使いでなければ必要のない品のあるのを一と眼で見て取って、いよいよその信念を固めたのです。これは後でわかった事ですが、駒吉の熊五郎は狙いをつけた大家へ昼のうちに紛れ込み、得意の忍術で物の蔭や壁際に屋守《やもり》のようにへばり付いて、夜更けを待って仕事をするのでした。  三年前伊勢屋へ入った熊五郎が浪人白井某を斬り殺し助勢に行った隣の駒吉の腕を切って逃げたと言われましたが、これは白井某が熊五郎の腕を切り落し、自分は熊五郎に斬られて死んだとみても差支えがないわけで、駒吉が熊井熊五郎であることはなんの支障もなく説明されるのです。  三年間休んだのは、右腕を切られた後の養生と、左腕を自由に使いこなすまでの練習期間で、それが終るとふたたび百軒一万両の大願へ驀進《ばくしん》したのでした。  駒吉の熊五郎が一番恐れたのは平次で、平次の家の路地を見張ったのも深い理由のあることです。百軒一万両の仕事は誰と賭《か》けたのか、それを果せばどうなるかは泥棒世界のことで誰にもわかりません。  お秀は賢く美しいが善良な娘で、極力父の悪業を諌《いさ》めましたが、とうてい及ばず、最後の伊勢屋押込みは、父より一と足先に出て目的の土蔵の中に忍び込み、父の危険に身をもって代るつもりでした。八五郎の甘さにちょっとは救われながら、とうとう平次の慧眼《けいがん》に見破られたのでした。 「八、くよくよするなよ。お秀は良い娘だったが、熊五郎の娘じゃお前の相手にはならないぜ」 「お職過ぎますかね、親分」  八五郎はそんな生れて始めての厭味《いやみ》を言って淋しく笑うのです。  子守唄     一 「親分、笑っちゃいけませんよ」  ガラッ八の八五郎が、いきなりゲラゲラ笑いながら親分の銭形平次の家へ入って来たのでした。 「馬鹿野郎、頼まれたって笑ってやるものか、俺は今腹を立てているんだ」 「ヘエー。何がそんなに腹が立つんで?」  八五郎はようやくその馬鹿笑いに緩《ゆる》んだ顔の紐を引締めました。 「お前のゲラゲラ笑う面《つら》を見ると腹が立つよ。虫の|せい《ヽヽ》だな」 「なんだ、そんな事ですか。あっしはまた可笑《おか》しくてたまらないことがあるんで。どうにもこうにも、ヘッ、ヘッ、ヘッ、ヘッ」  八五郎の顔には、また煮えこぼれるような他愛もない笑いが甦《よみが》えるのです。 「止さないか。お前の馬鹿笑いを聞くと、気が重くなるよ」 「だって親分、あっしは賭《かけ》をしたんですよ。銭形の親分はそんなつまらねえ仕事を引受けるはずはないというと、相手の女は——お銀という娘ですがね——その女は、この鑑定ばかりは本阿弥が夫婦連れで来ても埒《らち》があかないに決っているから、是が非でも銭形の親分を引っ張って来て、このガン首を二つ並べて置いて鑑定してもらいたい。とこう言うんでしょう」 「馬鹿だなア」 「それに銭形の親分は若くて愛嬌があってたいそう好い男だっていうじゃないか。そんな人にマジマジと顔を見られるのは本望だからどうしても連れてお出でよ——とこれはお銀の言い草ですがね。とうとう私とジャンケンをやりましたよ。あっしが負けたんで」  話の馬鹿馬鹿しさに銭形平次も黙ってしまいました。 「約束は約束だから、ともかく親分の迎えに来て、いきなり格子を開けると、とたんに親分の苦虫を噛みつぶした顔でしょう。お銀が——愛嬌があって好い男だってね——とぬかしたのを思い出したんでヘッヘッヘッ」 「止さないかよ、馬鹿野郎。俺は本当に腹を立てるよ」  銭形平次は全くもっての外の気色でした。でもこんなトボけたことにつれて、とかく引っ込み思案になり勝ちな平次を引っ張り出すガラッ八のいじらしい工作を知らないわけでもありません。 「でも、あっしの顔を立てて行って下さるでしょうね、親分」 「どこへ俺を連れ出そうというのだ。余計な細工をせずに、わけを話してみろ」 「親分が乗り出して下さりゃ占《し》めたもんだ。こうですよ、——麻布《あざぶ》六本木の庄司伊左衛門——親分も御存じでしょう」 「金持だってネ」 「大地主ですよ。江戸開府前からの家柄で、その当主の伊左衛門がまだ若い時分、奉公人のなんとかという下女と出来て女の児を産ませたが、まだ親がかりで話が面倒になり、下女は手当てをして暇を出し、間に出来た女の児だけ手許で育てたが、嫁のおもよをもらってから、折合いがむずかしくて、その女の児も親知らずで里へ出した——これが発端《ほったん》で」  ガラッ八の八五郎は語り始めました。  庄司伊左衛門の新妻のもよは悪い人間ではなかったが、まだ夢の多い若い盛りで、さすがに下女の産み棄てた継子《ままこ》のお藤を育てる気はなかったのです。それに十両の金をつけて調布の百姓に『一生音信不通』の約束でくれてやったのは、今から十六年前のお藤が三つになった歳の秋でした。その後庄司家の面倒な老人達は死んで、伊左衛門は主人になり、家業は年とともに栄えるばかりですが、どうした事か内儀のもよとの間に幾年経っても子が生れません。内儀はすっかり気が挫けて『私の不心得から継子を育てなかったので、罰が当ったのだろう』とそればかりを苦にしておりましたが、昨年の暮——まだ三十台で頓死《とんし》、これは間違いもなく卒中で、お勝手で正月料理の指図をしているうち、不意に引っくり返って、遺言する暇もなく息を引取ってしまったのです。  内儀のおもよが死ぬと、主人の伊左衛門は今は誰はばかる者もなく、十六年前里にやったお藤を捜し出して、養子の伊三郎に娶合《めあわ》せ、庄司家の跡取りを定めて安心しようと思い立ち、調布へ人をやって尋ねさせると、肝心の娘を預けた仁兵衛という百姓は、なにか良からぬことを仕出かして、五年前に土地を売って行方不知《ゆくえしれず》。里にやった娘のお藤などは、そのずっと前にどこかへやってしまって、今は尋ねる術《すべ》もないという心細い有様です。 「ところが大変なことになりましたよ」  八五郎は話上手に運んで行きました。 「何が大変なんだ」 「行方不知になったはずのお藤が、一ぺんに二人も出て来たんで——一人は番頭の金五郎が小田原在で手繰って行って、ようやく捜し出したお銀という娘で、こいつは陽気で、お転婆で愛嬌があって——」 「お前とジャンケンした娘だろう」 「ヘエ、そのとおりで。もう一人は掛人《かかりうど》の若い浪人者、庵平太郎《いおりへいたろう》という人が八王子まで捜しに行って見付けて来たお舟という娘ですがね。これは上品で、しっかり者で、口数が少なく——困ったことにどっちも綺麗で、どっちにも証拠がありますよ。お銀の方には、庄司の下女だった母親からもらったという銀の簪《かんざし》があるし、お舟の方には迷子札がありますがね、干支《えと》と名前を彫った真鍮の迷子札で——」 「守袋かなにかないのか」 「親知らずで里へやった子だから、守袋は持たせなかったそうです。名前だって勝手に変えて、一人はお銀、一人はお舟となっているでしょう」 「それでどうしようというのだ」 「ちょいと親分——六本木まで行って、鑑定してやって下さい。ガン首を二つ並べて、お銀の言い草じゃないが、そりゃ綺麗な娘ですよ」 「馬鹿」 「ヘエー」 「そんな間抜けなことが出来ると思うか、女衒《ぜげん》や人買いじゃあるめえし」 「ヘエー」 「金持の跡取りなんか、どうなったっていいじゃないか。どうしても判らなかったら、ジャンケンか籤引《くじびき》で決めるがいい」 「駄目ですかね、親分。どうしても」 「くどいよ、女の鑑定は俺の柄じゃねえ。お前が引受けたんだから、お前がやるがいい。鼻の下を長くして、マジマジと娘の顔を見比べる図なんざ、八五郎にうってつけだよ」  銭形平次はこういった調子でした。     二  それから、四五日経ちました。江戸の街々がすっかり夏姿になって、苗売《なえう》りの声が薫風に送られてどこからともなく響いて来る頃。 「さア、大変。だから言わないこっちゃありませんよ、親分」  ガラッ八は髷節《まげぶし》を先におっ立てて飛んで来たのです。 「何が大変なんだ。お前に文句を持ち込まれる覚えなんかないぜ」  平次は相変らず庭へ降りて、土の冷たさを素足になつかしみながら、物の芽などをいつくしんでいるのでした。 「親分があのとき行って下されば、こんなことにならずに済んだかも知れないじゃありませんか。六本木の庄司の主人——伊左衛門が殺されましたよ」 「えッ」 「だから親分が」 「まア小言を言うなよ八。いかに俺が|まめ《ヽヽ》でも、江戸中の人間を一々見張っているわけにも行くめえ。六本木は留五郎親分の縄張りだが、ともかく行ってみるとしようか」 「その留五郎親分は、銭形の親分を連れてくるようにって言いましたよ」 「よしよしわかったよ。お前はまた誰かにうんと智恵をつけられて飛んで来たんだろう」  平次はそんなことを言いながら、手早く支度をして八五郎を案内に六本木へ急ぎました。  六本木へ着いたのは昼過ぎ、庄司の家は古風な大きい構えで、なんとなく秘密の影の濃い、薄暗い生活ですが、平次の一行を迎えてくれた養子の伊三郎、番頭の金五郎の顔には謹み深い嗜《たしな》みはあるにしても、さして鬱陶《うっとう》しい悲嘆の色もありません。  主人伊左衛門の遺骸は、離屋《はなれ》のようになった奥の八畳に寝かしたまま、そこには掛人の若い浪人庵平太郎を始め、二人の娘——お銀のお藤と、お舟のお藤が、それでも神妙に控えておりました。  一摘みの香を捻った平次は、死骸の顔を一と眼、何もかもわかったような気がします。慣れた者の眼で見ると、間違いもなくその苦悶に変った顔や、皮膚の様子などから『石見銀山《いわみぎんざん》の鼠捕り』と言われた砒石剤《ひせきざい》を呑まされたものに違いありません。 「……」  平次は遺骸をもとのとおりにすると、座に還って黙ってそこに居並ぶ五人の顔を見渡しました。 「親分私から申し上げましょうか」  平次の意を迎えるように、番頭の金五郎は口を開きました。四十七八の分別者で、なんとなく『叩き上げた』といった強靭《きょうじん》な性格を思わせる男です。 「……」  平次は黙ってうなずきました。 「ゆうべ旦那は酉刻《むつ》〔六時〕少し過ぎにこの部屋へ膳を運ばせて、お一人で召し上りました、——給仕をして上げたのは、小間使の糸と申す者でございます。その時はなんのお変りもなく、たいそう御機嫌だったそうですが、お休みになる前|亥刻《よつ》〔十時〕近くでございました。いつものようにざっと一と風呂お温まりになって、御酒を一合ほどつけ——」 「風呂場はどこだ」 「ここから母屋《おもや》へ行く途中の左手でございます。——お気の毒なことに主人は、お内儀さんが亡くなってから気が昂《たか》ぶってよく寝付けないとおっしゃって、夜分お休みの前に一と風呂温まって、ほんの一合だけ寝酒を召し上るのが癖でございました」  金五郎の説明は、平次の問いに誘われて微に入り細を穿《うが》ちます。 「その寝酒は誰が用意するのだ」 「宵のうちにお糸が用意して置きますが、おかんをつけるのも召し上るのも主人が御自分でなさいます——それを召し上がってお床に入ると間もなくひどいお苦しみで、家中の者が駈付けて町内の本道〔内科医〕を二人まで呼びましたが間に合いませんでした。眼を落しなすったのは暁方で」 「この部屋は母屋から離れているのだな」 「ヘエ——廊下で続いております」 「主人の身の廻りの用事は」 「その小間使の糸と申すのがいたしております」  いろいろの疑いがこの小間使のお糸というのに集中されているのを平次は感じました。 「ところで医者は何と言うのだ」 「吐《は》いたものを見まして、石見銀山の鼠捕りの中毒だろうと申します」 「鼠捕りを使ったことがあるのかな」 「とんでもない。主人がやかましくてそんな物騒なものは使わせなかったのでございます。鼠がどんなに荒れても人間の命までは取らないから——と申しまして」  そんな話をしているところへ六本木の留五郎が勢い込んで入って来ました。 「銭形の親分、とんだ御苦労だったね。神田からわざわざ来てもらったがそれにも及ばなかったよ。いい塩梅《あんばい》に下手人の目星が付いてな」  四十男の働き者らしい留五郎は、すっかり上機嫌でやや光って来た額を撫で上げるのでした。  この土地で売込んだ御用聞で智慧の方はともかく、腕っ節だけは確かな男です。 「そいつはよかった。その下手人の目星というのは誰だえ」  銭形平次は穏かに下手に出ました。 「家中の者の手廻りの荷物を調べたんだ。すると使い残りの石見銀山を隠していた者があったとしたらどんなものだろう」 「それは本当か」 「本当も嘘もないよ、紙へ包んで行李《こうり》の底へ入れて置いたんだから間違いはあるめえ」 「誰です。誰の荷物にあったんです」  養子の伊三郎は少し気色ばみました。二十一二の、これは好い男です。色の浅黒い少し苦味走った、なんとなく爽《さわや》かな感じのする男で、店へ坐らせるよりは、太陽の下に引き出して、もっと男らしい仕事をさせてみたいような健康の持主でした。 「今下っ引がくくって来ますよ」  留五郎が指さした方を見ると、下っ引の宗吉というのが、一人の若い娘の襟髪を掴んで引っ立てるようにこちらへ来るではありませんか。 「あ、お糸、——あれはそんな事をするはずはありません、親分」  立上がったのは養子の伊三郎でした。番頭の金五郎、掛人の平太郎を始め、二人のお藤は互に顔を見合わせて、唯まじまじと睨み合っているだけです。  宗吉に引立てられて来たお糸というのは、亡くなった内儀のおもよがひどく目を掛けていた下女で、まだせいぜい十七か八でしょう、江戸の水で洗い上げられた娘達のように、垢抜《あかぬ》けのした美しさはありませんが、天道様が小麦色に色付けをして、一番無造作に拵え上げたともいったなんともいえない可愛らしさのある娘でした。 「私はなんにも知らないんだよ。痛いやな、何をするんだ。離しておくれよ」  相手の懐中《ふところ》に十手があるとも知らずに、言いたいだけのことをツケツケと言ってのけるといったなんとなく途方もないところがあります。 「えッ神妙にしろ、お前の行李の中にこんなものが入っていたんだ。知るも知らないもあるものか」  宗吉の左手には、紙に包んだ鼠捕りが無気味なものでも扱うように遠くの方でヒラヒラさせているのでした。 「銭形の親分、お糸はそんな大それたことをする娘じゃございません。なんとか取りなして下さいませんか、可哀想で——」  黙って見ている平次の袖を、そっと引くのは養子の伊三郎でした。 「正直者らしいが、証拠があっちゃ、六本木の親分もいちおう調べてみなきゃ気が済まないだろう。もっとも、下手人が毒薬の使い残りを自分の行李の底に残して置くというのは少しおかしいが——」  平次もツイそんな事を言ってみる気になりました。 「銭形の親分の前だが、ゆうべ主人の給仕をしたのも、寝酒の支度をしたのもこの女なんだぜ。家中の者が皆んなで食べたお勝手の食物には毒なんざ入っちゃいない——お勝手からこの室へ運ぶ間に食物の中へ毒が入ったとすると、こいつは誰の仕業《しわざ》かわかるだろう」  留五郎は少しいきり立ちました。 「だって六本木の親分、自分で運んだ膳へ毒を入れちゃ——」  横合から嘴《くちばし》を容れる八五郎を、 「黙っていろ、八。お前などの口を出す場合じゃねえ」 「ヘエ」  ひどく平次に叱り飛ばされて、八五郎は不服そうに口を緘《つぐ》みました。  その間に留五郎は下っ引の宗吉を促《うなが》して、腰縄を打ったままのお糸を、それでもさすがに表には憚《はばか》って裏からつれ出します。 「それじゃ銭形の、この娘にきっと泥を吐かせるから待っていてもらおうか。とんだ可愛らしい顔をしているが、太《ふて》え阿魔《あま》だ。さア歩けッ」  叱咤《しった》の声が木戸の外へ消えるのを、一座の七人が七人、全く違った心持で見送っております。 「ちょいと可哀想ねエ」  一番先に口をきったのは、お銀のお藤でした。少し肥《ふと》り肉《じし》で、色白で、豊満さに助けられて妙に艶《なま》めかしく見えますが、容貌はガラッ八が吹聴したほどのものではなく、ただ陽気でガラガラして、臆面もなくて取廻しの色っぽいところが身上《しんしょう》です。 「……」  もう一人のお舟のお藤は、眉を垂れて黙って見送りました。これは恐ろしく華奢《きゃしゃ》な娘で、子供子供した小さい身体や、細っそりした肉付など、掌《て》の上に躍って支那の皇帝に寵愛されたという、昔の伝説の美人に似て、この上もなく憐れ深い姿ですが、眼の涼しさ、唇の紅さなど、さすがに年頃らしい魅力がピチピチと躍ります。  このお舟を捜し出して来たという庵平太郎は、三十前後の浪人者で、二本差にしては少し甘口に出来た人間ですが、ちょっと見たところは、なかなかの好い男振りで、人との応対などにも、妙に角のとれた、町人らしい円滑なところがあります。     三 「親分|癪《しゃく》じゃありませんか」  お糸を追い立てて行く留五郎の跡を見送って、八五郎は親分の平次に囁やくのでした。 「癪? そんな物騒なものは片づけておいて、少しは俺に手伝うがいい。まだ調べることがうんとあるんだから」 「ヘエ」  平次は立上がって部屋の外廻りを一と通り調べました。八畳と六畳と二間続きで、母屋から短い廊下で続いておりますが、ここへ来るためには幾つかの人目の関所があって、特別に許されたものでなければ滅多に通れないようになっております。 「主人の世話をするのはお糸という娘だけか」  平次は後へ跟《つ》いて来た養子の伊三郎を振り返りました。 「ヘエ、父は気むずかしい方で、夜分などは私かお糸でなければ寄せ付けませんでした。ことに娘のお藤だと言って名乗って出た二人の女などには、少しも油断をしなかった様子です」  伊三郎の声は四方《あたり》に憚って小さくなります。 「ゆうべ晩飯の後で、たいそう機嫌がよかったというが——」 「それにもワケがございます。お銀とお舟の身許をもっとよく調べるために、今日は朝早く小田原と八王子へ人をやることになっておりました。さわぎが始まって、そのまま沙汰止《さたや》みになりましたが」 「誰と誰だ」 「お舟は庵さんが八王子から捜し出して来ましたので、その方へは番頭の金五郎をやって調べさせ、金五郎がお銀をつれて来た小田原の方へは、手代の千助をやることになっておりました」 「そいつは騒ぎに構わずやるとよかった——まアいい。後で下っ引を一人ずつ付けてやることにしよう」  平次はそんなことを言いながら、グルリと外廻りを一巡しました。庭はいくらか乾いておりますが、庇《ひさし》の下は、陽に疎《うと》く、降りつづいた春の名残りの雨で、ひどく土が柔かくなっておりますが、人間の足跡など一つもなく、ただ東向きの雨戸の外のあたり、柔かい土の上に、幅一尺に長さ三尺ほどの板のようなものを置いた跡が一カ所、はっきり見えるのが眼を引きます。 「雨戸は閉まっていたと言ったね」  平次は誰へともなく言いました。 「皆んな桟がおりて、よく閉っておりました」  伊三郎は応えます。 「雨戸の上の欄間《らんま》をもぐる術《て》はありませんか」  八五郎は庇の下を見上げます。そこには六寸ほどの幅の障子が閉まっておりますが、これは開けたところで人間がもぐるはずもなく、もぐるにしても、雨戸の外に梯子《はしご》を掛けなければ届かないわけですが、柔かい土の上にもその跡もありません。 「子供でも潜《くぐ》れないよ。それに下からでは飛び付く工夫もあるまい——だが念のために縁側から踏台をして欄間の敷居を見てくれ。一カ所|埃《ほこり》の摺《す》れているところはないか——」  言葉のおわらぬうちに、八五郎は家の中へ飛び込み、踏台をして一々欄間を覗きましたが、 「恐ろしく掃除が届いていますよ。こんなところまで、埃一つない」  そう言って降りて来ました。 「父は掃除がやかましくて、障子の桟や、長押《なげし》の上を一々指で撫でてみる人でした。現に昨日もその欄間をよく掃除させたばかりで」  伊三郎はそう説明してくれるのです。  平次は家へ入ると、廊下伝いに、風呂場から店の方へ廻り、奉公人達や伊三郎の部屋、お銀とお舟の部屋を覗いて、お勝手へ来ると、 「ゆうべ主人が飲んだ酒の残りはないのか。徳利は、猪口《ちょこ》は?」  と一と通り詮索してみましたが、酒は雫《しずく》も残さなかったそうで、徳利や猪口はもちろん綺麗に洗ってなんの手掛りも残ってはいません。 「ところで、あの二人の女のどっちが真物《ほんもの》かわかれば、自然主人を毒害した下手人もわかるだろう、——お前はどっちが偽物《にせもの》だと思う?」  家の中を一と廻りした後、平次は廊下に立佇《たちどま》って伊三郎の気を引いてみました。 「さア、それは私には判りませんが」  伊三郎もこの疑問に悩まされていたのです。 「なんとなく好きだとか嫌いだとか、それくらいのことなら言えるだろう」 「正直のところを申し上げますと、私はどっちも好きじゃございません」 「フーム」 「それよりお糸が可哀想でございます。あれは唯の奉公人ですが、亡くなった母が不愍《ふびん》がりまして、自分の生んだ娘のように眼をかけておりました」 「主人の方は」 「父は母が生きている頃はそうでもございませんでしたが、母が亡くなってからはお糸一人を頼りにして、何をしても外の奉公人では気に入らない様子でございました」  そう言う伊三郎も、あの縛られて行ったお糸——大して綺麗ではない代り、健康そうで忠実らしいお糸に、並々ならぬ好意を寄せている様子です。 「ところで、その里へやったお藤という娘は、母親がなくて此家《ここ》で三つになるまで育ったわけだが、乳母のようなものを置かなかったのかな」 「私もその頃はまだこの家へ参っておりませんので、よくは存じませんが、なんでも目黒あたりの百姓家から、乳のたくさんある女を雇っていたという話でございます」 「八、その乳母を捜してつれて来てくれ。——出入りの口入れへ訊いたら受け人が判るだろう」  と平次。 「そんな事ならわけはありませんよ。二日もあれば首根っこへ縄をつけて引っ張って来ますよ」 「それから、八王子と小田原へ行く手代へ下っ引を一人ずつ付けてやるように、お前が手配するんだ。いいか、八」 「ヘエ」 「言うまでもないことだが、お銀とお舟の身許を洗いざらい調べ抜くように」  平次の布陣は水ももらさぬ緻密《ちみつ》さです。     四  平次は念のために番頭の金五郎を呼んで、お銀を捜し出した手順を訊くと、 「調布の仁兵衛という百姓——これは三つになるお嬢さんを、十六年前に預けた家ですが、その仁兵衛を尋ねると、五年前に悪い事をして村を逃げ出し、それっきり行方が判らないそうでハタと当惑いたしました。もっとも里に預けたお嬢様は、そのまた七八年前——今から十三年も前に小田原の商人《あきんど》にくれてやったという、御近所衆の噂《うわさ》を聞きまして、私は小田原まで延《の》しました。が、小田原と申しても大久保様の御城下で、思ったよりは広うございます。家主や町役人を門並訊ねて廻ってようやく相模屋《さがみや》という旅籠屋にいるお銀さんという娘が、十二三年前に調布から悪者にさらわれて来た人だと聴いて、ようやく尋ね当てたようなわけでございます」  そういった筋道を、かなり詳しく説明してくれます。もう一つ念のためお銀を呼んで訊くと、 「親分さん、私は小田原名物の飯盛りさ。ホホ、ずいぶん苦労したわよ。庄司の跡取りになって少しは存分に暮らさなきゃ合わないでしょう」  といった調子です。 「調布にいた頃のことを知っているだろうな」 「知ってますとも、その頃は名前も『藤』といいましたよ。親の仁兵衛はわからない人でねエ」 「三つになる時まで、此家《ここ》で育ったはずだが、その頃のことはどうだ」 「なんにも覚えちゃいませんよ。親分さんだって、二つや三つの時のことを覚えちゃいないでしょう、——知っていると言いたいが、私はそんな拵え事や嘘は大嫌いさ」  お銀はそう言いながら、平次へ変な眼付をしたり、しな垂れかかりそうにしたり、悩ましい限りの素振りを見せるのでした。  つづいて庵平太郎にも会ってみましたが、 「平次親分、——金五郎の言うことなどは当てにならんよ。あの男の身許と店の帳尻を見たら、あの男がどれほど出鱈目《でたらめ》な人間かわかるだろう。調布の仁兵衛が行方不知になったことも、お藤という娘が十二三年前に人に売られたことも本当さ。だが、それは小田原の商人じゃなくて、旅から旅へ廻って歩く香具師《やし》だったんだ。奇天斎といってね、俺はその足取りを突き止めるのに三月もかかったが、ようやく八王子に小屋掛けしているのを見付けて、あのお舟という看板娘をつれて来たのさ。金で五十両、それだけではウンと言わなくて、イヤな事だが両刀まで捻《ひね》くり廻して見せたよ——奇天斎はどこにいるかって? 江戸へ入ったという話もあるが、そいつは判らないよ。噂に聴けば、なんでも俺をうんと怨んでいるそうだ。米櫃《こめびつ》を取られたんだから、それも無理はあるまい。ハッハッハッ、だが、落ち果てても庵平太郎武士の端くれだ。まだ奇天斎風情の脅《おど》かしには驚かねえ」  庵平太郎はそう言って見得を切るのです。甘口なようでも、二本差らしい虚栄心はあるのです。  平次はなおお舟にもいろいろ訊ねましたが、これは華奢な身体をなよなよとくねらせるだけで、平太郎が説明した以上のことはなんにも言わず、調布の仁兵衛のところで育った頃のこともお銀と大同小異です。  なお二人の持っている証拠の品を見せてもらいましたが、お銀のは手打の銀簪《ぎんかんざし》で、笹竜胆《ささりんどう》を彫った珍しいもの、これは生みの母親——つまり庄司伊左衛門が手を付けた女中からもらったものだと言いますが、誰もそんなものを知っておらず、なんの言い伝えもないので証拠といってもあまり大した値打はありません。  お舟の持っているのは、充分に古びを帯びた上、青錆《あおさび》まで浮いた真鍮《しんちゅう》の迷子札で、小判形に『江戸麻布六本木庄司伊左衛門娘お藤、壬寅《みずのえとら》三月十七日生』と四行に彫ったものでした。  八方に手を打った平次は、この辺でひとまず引揚げる外はありません。     五  それから三日経ちました。小田原へ行った手代の千助も、八王子へ行った番頭の金五郎も帰って来ず、庄司の家は手不足で転手古舞をしながらも、どうにかこうにか主人の葬《とむら》いを済ませ、養子の伊三郎と、浪人者の庵平太郎と、二人お藤のお銀とお舟が、睨み合ったまま憂鬱な日が過ぎたのです。 「親分、いま帰りましたよ。いや、驚いたの驚かないの——」  目黒へ行った八五郎が、神田の平次のところへ帰って来たのは四日目の昼過ぎでした。 「何をそんなに物騒ぎをするんだ」 「十六年前、六本木の庄司の家に奉公していた乳母のお元を見付けました」 「それはいい塩梅《あんばい》じゃないか、自分が手塩にかけて育てたお藤という娘に覚えがあるだろう」 「それが大変なんで。目黒から本所へ越して、潮来《いたこ》へ流れて行ったのを、ようやく捜し当てたはいいが、まだ四十六だというのに、恐ろしい呆《ぼ》けようで、自分の名前もろくに覚えちゃいませんよ」 「健忘症か」 「健棒症だか擂粉木《すりこぎ》だか知らないが、あれじゃなんの役にも立ちませんよ。とにかく六本木の庄司へ送り届けて来ましたが、お銀を見せても、お舟を見せても、ケロリとして悲しいとも懐かしいとも言やしません。お仕舞にはこんな人を知らないと言い出したんで」 「それは困ったな」 「大困りですよ。あんな呆けなすを捜すのに四日もかかったかと思うと——」 「まア、なんかの役に立つこともあるだろう。腹を立てるな」 「ヘエ——」  平次も八五郎を慰めるのが精いっぱいです。  が、事件はその日を境にしてまた急展開しました。翌る日の朝、六本木の庄司から使いの小僧が飛んで来て、 「——御浪人の庵平太郎さんが殺されました。親分さんにすぐお出で下さるように——」  と養子の伊三郎の口上を伝えたのです。 「八、大変なことになったぞ」 「すぐ行くんでしょう」 「うん、来るか、お前も」  二人は宙を飛びました。六本木へ着くと、 「あ、親分さん方、困ったことになりました」  伊三郎はイソイソと迎えてくれます。  挨拶もそこそこ店の裏の方に建て増した庵平太郎の部屋へ行ってみると、 「フーム、これは」  平次が驚いたのも無理はありません。なまくらでもなんでも浪人者の平太郎『武士の端くれ』と自分でも威張った男が、床の上でたった一と突き、自分の脇差で心臓のあたりを刺されて死んでいるではありませんか。  大きく見張った眼にも、妙に笑いを含んだような表情にも、さして苦悩の痕《あと》のないのは、声を立てる隙もなく息が絶えたためでしょう。  畳の上には斑々《はんはん》と土足の跡が残って、同じように踏み荒された縁側、そこには雨戸が一枚、外から鑿《のみ》でコジ明けたままの口を開けて、真昼の陽がカンカンに入っているのです。 「奇天斎は?」  八五郎がそう言ったのも無理はありません。 「その奇天斎がどこにいるか、大急ぎで手配してくれ。香具師《やし》仲間か組頭に訊いたらわかるだろう」  と平次。 「ヘエ」  飛び出そうとする八五郎は、外から入って来た留五郎に押し戻されました。 「八兄哥、その手配ならもう済んだよ。手いっぱいに人を出してやったから、奇天斎が江戸にいさえすれば、明日といわず、今日の暮れまでに埒《らち》があくだろう」 「お、六本木の親分か、そいつは有難い、——が、その手配も大した役に立たないかもしれないぜ、気休めにはなるが」 「はてね」 「奇天斎は江戸にいないだろうよ」  平次は妙なことを言うのです。 「江戸にいなきゃ、どこにいるんだ」  留五郎つい向っ腹を立てた様子ですが、 「気に障ったら勘弁してくれ。俺は悪気で言ったんじゃねえ。なア、六本木の親分。このとおり床の上に仰向きになっているのを音も立てさせずに殺したのは恐ろしい手際だが、雨戸をあんなに乱暴にコジ開けるまで、侍《さむらい》たるものが知らずにいるのも変だし、縁側や畳の上を、こんなに汚すのも手際が悪すぎるとは思わないのかえ」 「なるほどそんな事も言えるだろうな」  留五郎も少しばかり折れました。 「俺はこの下手人は、奇天斎なんて化物染《ばけものじ》みた小父さんじゃないと思うよ。聞けば奇天斎というのは香具師《やし》仲間の古い顔で、六十を越した年寄りだっていうじゃないか」 「……」  平次の論理に承服したものか、留五郎は黙ってしまいました。 「ところで六本木の親分、あのお糸という娘はどうしたえ」 「まだ止めてあるが、やっぱりなんにも知らなかったらしいから、今日あたりは帰そうと思うよ」 「それは有難い。この家でも手がなくて困っているようだから」  平次に言われると、留五郎は一人の下っ引を走らせました。お糸を帰す潮時を待っていたのでしょう。  それから養子の伊三郎に会ってみましたが、さすがに落着いた顔をしていても、内心の動揺は隠しようもありません。庵平太郎が殺されたことについてはなんの心当りもなく、けさ小僧の梅吉が見付けて大騒動になったというだけのことです。 「庵さんは、亡くなった父の碁《ご》友達で、あまり評判の良い方ではございませんが、用心棒のようにして、三年越し私どもにおります。家も身寄りもなんにもないようで」  というだけのことです。小僧の梅吉は、 「驚きましたよ。雨戸を開けようと思って行くと、あのとおりでしょう」  十三の少年には、この驚きの表現が精いっぱいの説明です。 「近頃庵さんに変ったことはなかったのか」 「妙に腹立ちっぽくなっていましたよ」 「それから」 「さア——」 「外に変ったことがなかったのか、家の中に」 「お銀さんも無暗に腹を立てていましたよ。あの愛嬌のいい人が、朝から晩まで不機嫌な顔をして——」 「それから?」 「はしゃいでいるのはお舟さんだけで、——もっとも若旦那が側にいる時だけでしたが、ヘッ、どうかしていますよ、あの人は」  恐ろしくこまちゃくれた小僧です。     六  平次は一わたり調べが済むと、一と間にお銀とお舟を呼び入れました。 「……」  黙って睨み合う二人、肥ったのと痩せたのと、賑やかのと淋しいのと、口数の多いのと無口なのと、負けず劣らず綺麗なくせに、意地っ張りでは一歩も引きそうもないのが二人——太夫と三味線ひきのように、こう斜《はす》に相対したところは、ちょっと想像もできない面白い図です。  そこへ、不意に唐紙を開けて入って来たのは、昨日ガラッ八が潮来《いたこ》からつれて来た乳母《うば》のお元でした。四十六というにしては恐しく老けて、胡麻塩《ごましお》頭を振りながら、口をポカリと開いて、なんの反応もなく二人の美女を眺めております。 「まア、婆や。お前はまだ私を思い出してはくれないのかえ」 「……」  真っ先に飛び付いたのはお銀でした。皺だらけの手を取って無理に振ると、お元は迷惑そうにその手を引っ込めて、胡散臭《うさんくさ》くお銀の顔を上眼使いに見上げるのでした。 「……」  そこへ、静かに入って来たのは、許されて帰った小間使いのお糸でした。お銀とお舟を主人扱いするように言い含められているのでしょう。敷居際に手を突いて、 「……」  何やら口の中で言って、つい上げた瞳が、乳母のお元の瞳と宙《ちゅう》に会いました。 「あ、お前様は?」  お元は不意に、ツッ放したような調子でものを言いましたが、自分の態度が恥ずかしいと思ったか、胡麻塩頭を小刻みに振って、何やらブツブツ言いながら顔を反《そむ》けてしまいました。  この小さい場景が、平次の注意を外れるはずもありません。平次は何を考えたか、そのまま八五郎を帰して、自分一人だけ庄司の家に踏み留り、しばらく情勢の推移を見る決心をしました。  その日は無事に暮れて、翌る日もそのまた翌る日も何事もなく過ぎました。ともかくも庵平太郎の葬いを出し、騒ぎが一段落になって、家の中には久し振りに静かになった、四日目の夕方のことでした。  初夏の陽は高台の屋敷町の木立に落ちて、美しい夕映が次第に消えると、大空には涼しい星が一つ二つ瞬き始めます。  縁側に出てこの静かな景色を眺めていた乳母のお元は、柱に凭《もた》れた肩を揺りながら、ついホロホロと歌い出しました。それは江戸の街では聞くことの出来ないような、古風な、そして鄙《ひな》びた子守歌で、   ねんねんころころ ねんころり   ころころ転げて夢の国   夢の国には花が咲く——  それは細々とした良い声でした。そして肥って呆《ぼ》けて、見る影もなく年をとった乳母の喉から出るものにしては、思いもよらぬ哀れ深く美しい歌だったのです。  多分お元はこの初夏の夕暮れの美しさに魅《み》せられて、呆《ぼ》けた頭に十六年前の記憶を喚び起こしたのでしょう。   赤く咲いたのはなんの花   白く咲いたのはなんの花   星より綺麗な花の数  第二節目を歌う頃から、乳母の声よりもっともっと若くて美しい声が、覚束《おぼつか》ない歌詞を辿《たど》るように、乳母の歌に跟《つ》いて行くのです。   星よりきれいな花の数   泣くとお花が萎《しぼ》むぞえ   泣かずにねんねんおしなされ  この古風な歌を歌い終ると、乳母の呆けた頬には、甘い涙の糸が流れました。  乳母に跟いて、覚束なくもこの子守歌の節を歌ったのは、忙がしく夕飯の支度を手伝っている、小間使のお糸ではありませんか。  物蔭にこの哀れ深い情景を見ていた平次は、黙ってそこを立ち去ったことはいうまでもありません。  その晩平次は、養子の伊三郎と相談して、乳母のお元の心持の動きを試しました。そして、これは世にいう健忘症などではなく、重なる苦労と貧乏のために、精も根も摺《す》り減らして、なんとなく呆けているのだと解ると、いろいろ古いことなど問い試みて、これだけのことがわかりました。  お藤を産んだ下女の名はお篠といったこと、——お篠は笹竜胆《ささりんどう》の銀簪《ぎんかんざし》を持っていたこと、——そしてお藤のために真鍮の迷子札を作って、そっと守袋へ入れてやった覚えのあること——などでした。  一と晩がかりで、いろいろ根ほり葉ほり訊ねた末、もう一つ、お元は面白いことを思い出してくれました。それは、お藤を里にやる時、持ちきれなくて残して行った玩具《おもちゃ》と着物を、これも暇を出されたお元が、黒塗りの箱へ入れて——形見のつもりで蔵の隅へそっと隠して置いたというのです。  平次と伊三郎はすぐさま土蔵へ行って、お元の案内でその箱を見付けました。開いて中を見ると、十六年前にお元が入れたという品々が、そっくりそのまま、大して損じもせずに保存されてあったのです。  平次はそれを母屋《おもや》へ持って来ると、主人の伊左衛門が住んでいた奥の八畳に移し、家中の物を集めて『この箱の中にお藤が三つになるまで身近く置いた玩具と着物が入っている。明日はそれをお銀とお舟に言い当てさせてどちらが本当のお藤かをきめるつもりだ』と言い渡したのでした。  すぐその場で言い当てさせずに、どうして明日にするのか、その意味は誰にもわかりませんが、銭形平次ほどの者のする事には、それに相応した理由のあることだろうと、——家中の者はそんな風に考えた様子です。  翌る日の朝、もういちど家中の者が奥の八畳に集まりました。 「この箱の中にある品は、今から十六年前、お藤が三つの時、里にやられる前の日までに身につけていた物だ。たった三歳の子供では皆んな憶えているのはむずかしかろうが、一生に一度の悲しい日のことだから、この黒い箱にお元が封《ふう》じ込んだ品のうち、せめて一つくらいは覚えているだろう。お銀もお舟も思い出しただけの品をこの紙へ書いて、俺のところへよこしてくれ。いいか」  平次が渡した一枚ずつの懐ろ紙へ、お銀もお舟も、突き詰めたような顔で、何やら一生懸命に考えながら——それでも大した苦労もなく書いて、平次の手許に渡しました。 「ところでもう一人、お糸にも書いてもらいたいと思う。これは自分からお藤と名乗ったわけではないが、少しばかり思い当ることがあるから——」  平次はそう言ってもう一枚の懐ろ紙をお糸に渡したのです。 「いえ、私はなんにも存じません。私は」  お糸は物に脅《おび》えたように尻込みするばかり。 「でも物は試しということがある。例えば、お前はこんな黒い箱に覚えはないか」 「なんかずっと昔に見たことがあるような——」 「それ御覧。そんな事があるから物は試しだ」 「……」 「この黒い箱に何が入っている。いや、お前は子供の時どんな玩具を一番好きだった」 「毬《まり》、——赤や青や紫や黄色の糸でかがった大きい毬でした」 「それから着物は?」 「赤い帯を黒い箱へ入れたことも知っております」 「それっきりか」 「え」  平次の問い上手に誘われてこれだけの事を言うのが糸には精いっぱいだったのです。 「それでは先ずお銀のを読もう。えーと、紫の矢絣《やがすり》の着物を着た姉様人形と、麻《あさ》の葉を絞った赤いおちゃんちゃん——こうだ」  皆んなは顔を見合せました。 「それからお舟の書いたのは——姉様人形、紫の矢絣《やがすり》の着物をきていたと思う。もう一つは赤い袖無し、麻の葉絞り——とある」 「……」 「それでは箱を開けるよ。いいか」  平次は床の間から黒い箱を取り出して、手品師が魔法の箱でも開けるように勿体らしい手付きでサッと蓋《ふた》を取ると、中から現われたのはなんと、紫矢絣の振袖を着た姉様人形と、麻の葉を絞った赤いちゃんちゃんに間違いもなかったのです。 「……」  お舟はそれを羨《うらや》ましいもののように見やりながらそっと涙を拭きました。なんにも言いませんが、思いは千万無量といった姿です。  無言のざわめきが小波のように人々の間を渡りました。が、次の瞬間、 「ところで驚いてはいけないよ、——この黒い箱へ、昨日まで入っていたのは、この二た品ではないのだよ」  平次の言葉は水のように一座を冷やりとさせました。 「私と銭形の親分とで相談をして、ゆうべ中味を入れ換えて置いたのだ。十六年間この黒い箱の中に入っていたのはこちらの二た品だよ」  伊三郎はそう言いながら、側に置いた風呂敷包みを解きました。中から現われたのは、お糸の言ったとおり、『五色の糸でかがった古いまりと、赤い色が橙色《だいだいいろ》に褪《さ》めた子供の帯が一と筋』ではありませんか。 「お銀とお舟は昨夜この部屋へ入って、中身を入れ換えたのも知らずに、箱の中の品を見て行ったのだろう。いや、それに相違はあるまい。三つになる子供が、麻の葉を絞ったちゃんちゃんや、紫矢絣の着物などと細かい事など覚えているはずはない」 「……」  平次の論告は峻烈を極めました。 「もう二人とも尻尾を出してもよかろう、——俺の調べたところでは、お銀は小田原在の百姓の娘で調布の仁兵衛の養い娘ではない。笹竜胆《ささりんどう》の銀簪《ぎんかんざし》は金五郎の細工だ、——いや金五郎はもう恐れ入って白状しているよ」 「……」 「お舟は奇天斎一座の娘軽業師だ。奇天斎は川越へ行っているが——おかげで庵平太郎を殺したのは奇天斎でないとわかったようなものだ。その代り、これを調べるのに三日も四日もかかったよ」 「……」 「奇天斎がお舟をもらったのは十五年も前だ。お藤が調布の仁兵衛の手を離れたのは十三年前だ」 「……」 「それからもう一つ、お舟は奇天斎のところで縄抜けの術《じゅつ》を十八番にしていた。その細っそりした身体で縄抜けという芸があれば、欄間《らんま》をくぐって主人の部屋に忍び込み、主人が風呂へ入っている隙に、寝酒の徳利に石見銀山の鼠捕りを入れるのは何でもないことだ、——庭に足跡のないのは板を敷いてその上に庵平太郎が立ち、平太郎の肩を伝わってお舟が欄間へ飛び込んだのだ」 「迷子札」  お舟は追い詰められながらも最後の救いに噛り付きました。 「迷子札などは何時でも拵えられるよ。真鍮《しんちゅう》を梅酢《うめず》に漬けておけば、青錆も出るよ。あの錆具合が少し念入り過ぎるのを、俺が気が付かずにいると思うか」 「……」 「自分の素姓が見露わされそうになって主人を殺したお舟は、今度はこの家の娘になり済まして伊三郎と夫婦になるのには庵平太郎が邪魔になった。その上、悪事の合い棒の平太郎さえなければ天下大平だと思い込んで、とうとう平太郎を殺す気になった。それもお銀に疑いを向けるように仕組んではかえって自分が疑われると思って、最初はお糸に疑いを向けさせ、庵平太郎を殺したときは、奇天斎に疑いをもって行くように企らんだ。が、平太郎を殺したのは家の中にいる女——それも平太郎に油断させ抜いた女の仕業に間違いもない」  平次の論告は一言一言、お舟の仮装《かそう》を剥ぎ取って、寸毫の仮借もありません。 「口惜《くや》しいッ」  お舟は立ち上がりました。上品でこの上もなくおとなしやかなのが、サッと悪魔的な表情に変るとみるや、軽捷無比《けいしょうむひ》な身体を利用してバラバラと駈けて行くのを、どっこい、 「神妙にせい」  行く手に立ち塞がったのは、いつの間にやらそこに来ていたガラッ八の八五郎だったのです。  お舟は処刑され、お銀は阿呆《あほう》払いにされて、間もなくお糸は伊三郎と娶合《めあわ》せられました。  お糸の耳に『調布の仁兵衛』という名さえ早く聴かせる者があれば、こんな手数はせずに済んだことでしょう。お糸は六つになるまで調布で育ったのですから、噂を聞けば、早くも自分の身の上に気が付いたはずです。四方《あたり》の者が皆んな遠慮して内証事《ないしょごと》をお糸の耳に入れなかったばかりに、とんだ贋物が二人まで現れることになったのでした。 「亡くなった内儀のおもよが、年が経つにつれて気が挫《くじ》け、子まで産んだ女中を追い出した罪亡ぼしのつもりで、お藤のお糸を捜し出して手許に育てていたが、主人に打ち明ける術《すべ》もなく頓死し、とうとうお銀お舟などという妖物《えてもの》が飛び出すことになったのさ。女のこんな細かい心づかいは、俺たちにはわからないよ」  事件が一段落になったとき、平次は八五郎にせがまれて、こう経緯を説明しました。 「——お銀は金五郎の拵え物で、お舟は庵平太郎の情婦《いろ》さ。お銀は唯の女だが、お舟は恐しい毒婦だ。伊三郎を見ているうちに庵平太郎が嫌になり、とうとうその口を塞ぐ気になったのだろう、床にいる人にとがめられずに、一と突きにやった手際はどうせ関係のある女の仕業だ。それから、雨戸をはずしたのは先ずいいとして、畳の上の泥は細工過ぎたよ。奇天斎が江戸にいないとわかれば、下手人は間違いもなくあの女だ」 「ヘエ——悪い女ですね」 「だがな八、世の中にはお舟のような女は滅多にいるわけじゃないよ。それにお糸のような可愛らしい娘もいることだし、独り者は気を落すことはないぜ。ハッハッハッ」  一と仕事済むと、平次は肩の重荷をおろしたように、カラカラと明るく笑うのでした。  権三は泣く     一 「考えてみると不思議なものじゃありませんか。ね、親分」  八五郎はいきなり妙なことを言い出すのでした。明神下の銭形平次の家の昼下がり、煎餅《せんべい》のお盆を空《から》っぽにして、豆板を三四枚平らげて、出殻《でがら》しの茶を二た土瓶《どびん》あけて、さてと言った調子で話を始めるのです。 「全く不思議だよ。昼飯が済んだばかりの腹へ、よくもそう雑物《ぞうもつ》が入ったものだと思うと、俺は不思議でたまらねえ」  平次は八五郎の話をはぐらかして、感に堪えた顔をするのでした。 「そんな話じゃありませんよ。あっしの不思議がっているのは、江戸中の人間が腹の中で、いろんな事を考えているのが、もしこの眼で見えるものなら、さぞ面白かろうといったようなことで——」 「あの娘《こ》が何を考えているか、それが知りたいという話だろう」 「まア、そんなことで」  八五郎は顎《あご》を撫でたり額を叩いたりするのです。 「安心しなよ、お前のことなんか考えちゃいないから」 「有難い仕合せで、ヘッ」 「誰が何を考えているか、一向わからないところが面白いのさ。こいつが皆んな眼に見えたひにゃ、大変なことになるぜ、——第一こちとらの稼業は上がったりさ」 「大の男の腹の中が、哀れな恋心で一パイで、可愛らしい娘が喰い気で張りきって、立派な御武家の腹の中が金欲でピカピカしているなんざ、面白いでしょうね」 「言うことが馬鹿馬鹿しいな。そういうお前の腹の中には、いったい何があるんだ」 「戸棚の中の大福餅ですよ、——先刻《さっき》チラリと見たんだが、まだ四つ五つは残っているに違げえねえ。あれをいったい、いつ誰が喰うだろうと——」 「呆れた野郎だ、——お静、大福餅を出してやってしまいな。そいつは見込まれたものだ、他の者が喰うと、八五郎の念《おも》いで中毒する」 「ヘッ、ヘッ、さすがに銭形の親分は天眼通で」  八五郎は底が抜けたように笑っております。  これはしかし、平次の生活のほんのささやかな遊びに過ぎなかったのですが、その日のうちに銭形平次、怪奇な事件の真っ唯中に飛び込んで、人の心の動きの不思議さに手を焼くことになっておりました。 「親分、大変ッ」  そこへ飛び込んで来たのは、平次の子分の八五郎のまた子分の、下っ引の又六という、陽当りの良くない三十男でした。ノッポの八五郎と鶴亀燭台《つるかめしょくだい》になりそうな小男、器用で忠実《まめ》で貧乏で、平次と八五郎に対しては、眼の寄るところに寄った玉の一人だったのです。 「なんだ、又六じゃないか、何が大変なんだ」  八五郎はそれでも一かど親分顔をして、縁側へ長んがい顎を持ち出します。 「御数寄屋橋から息も吐《つ》かず飛んで来ましたよ」 「恐しく長い息だな」 「無駄を言わずに、話を聴け、八」 「ヘエ」  平次に叱られて八五郎は間伸びな鋒鋩《ほうぼう》を納めました。 「御数寄屋橋の御呉服屋|主人《あるじ》三島屋|祐玄《ゆうげん》様が殺されましたよ。公卿御用の家柄だ、下手人がわからないじゃ済むまいから、すぐ平次を呼んでくるようにと、八丁堀の笹野様から、格別のお声掛りで——」 「そうか、御苦労御苦労、笹野様のお言葉じゃ行かなきゃなるまい」  平次に取っては年来の知己でもあり、恩人でもある、吟味与力の笹野新三郎《ささのしんざぶろう》が、事件がむずかしいとみて、又六を神田まで走らせたのでしょう。  平次と八五郎と又六はすぐさま数寄屋橋まで轡《くつわ》を並べるように駈けました。三人の吐く息が、白々と見えるような、薄寒い冬の日です。  三島屋祐玄というのは、一石橋を架けたという御藤縫殿助《おふじぬいとのすけ》を筆頭に、七軒の公卿御用を勤むる御呉服所のうちの一軒で、いうまでもなく士分の扱いを受け、公卿御手当のほかに、莫大な利分をあげて、豪勢な暮しをしている家柄だったのです。     二 「おや、銭形の親分、親分が来て下されば安心で」  その豪勢な店口に迎えてくれたのは、番頭の幸七《こうしち》でした。五十年輩の気むずかしそうな男ですが、その代り三島屋に三十七八年も奉公し、この店から自分の葬いを出してもらうつもりでいる、支配人です。  幸七の後ろには、好い男の手代良助、悪戯《いたずら》盛りらしい小僧の庄吉などが、不安と焦燥に固唾《かたず》を呑んで控えました。  番頭に案内されて、まず主人祐玄の殺された部屋に通ってみると、これは母屋《おもや》つづきには違いありませんが、土蔵と土蔵の間、大きな青桐の下へ、高々と張り出した二階で、ここから丸の内の景色が一と眼に見られるのを自慢に、主人の居間にも、寝室にもなっているのでした。  亡くなった主人の祐玄は、女房に死に別れた淋しさを忘れるために、一日の半分はここへ引込んで、お茶を立てたり、物の本を読んだり、まことに閑寂《かんじゃく》な、行いすました暮し方をしているのでした。  梯子段は母屋の方からつづく廊下を経てたった一つ、その階下《した》には物置とも納戸《なんど》ともつかぬ、商売物を入れて置く部屋が二つあり、梯子段の側には三畳の薄暗い部屋があって、番頭の幸七が寝泊りをしているのだと、幸七自身が説明してくれました。 「ここに私が頑張っておりますので、夜中に二階の主人の部屋へ変な者が行けるはずはないのですが——」  幸七がもっての外の顔をするのも無理のないことです。二階の取っ付きは長四畳で、その次が主人の部屋の六畳になります。中はいちおう取片づけてありますが、検屍が済んだばかりで、新しい蒲団の上へ、主人の死体はそのまま横たえられ、形ばかりの香花を供えて、若い倅の祐之助と、娘のお菊が湿っぽくお守《もり》をしております。  部屋の木口や調度は、御数寄屋好みで華奢《きゃしゃ》には出来ておりますが、さすがに三島屋祐玄で、かなりに贅《ぜい》を尽し、泥棒除けには不都合でも、日常生活はさぞ快適だったことと思わせるのでした。  倅祐之助と娘お菊は、黙礼して後ろへ引き下がると、入れ換って平次は死体の側に進みました。  六十年配の洗練された老人の顔は、苦悩に歪《ゆが》んで少し脹《はれ》っぽく、首には深々と真田紐《さなだひも》で絞めた跡が残っておりました。 「紐はあったはずだが——」 「これでございます——今朝見付けた時は、主人の身体はもう冷たくなっておりましたが、ともかく一応の介抱をいたしました。そのとき首からその紐を解こうといたしましたが、盲結《めくらむす》びになっていて、容易に解けません。仕方がないので鋏《はさみ》で切ってしまいました」  番頭の幸七はそう言って、結び目のところで切った真田紐を見せました。 「これは誰の紐か、わかるだろうか」 「ヘエ、手代の良助が、前掛けの紐にするつもりで、取って置いたのだそうで——」  幸七はいかにも言い悪《にく》そうです。紐はくすんだ萌黄色《もえぎいろ》で幅五分くらい、いかにも丈夫そうなものですが、鋏《はさみ》で結び目を切ったために、どんな結びようであったか、番頭の言葉を信用するほかはありません。  先刻《さっき》店でチラリと見たとき、手代の良助の顔に、異常な恐怖の色のあったのは、主人の死体の首に、自分の真田紐が巻きついていたためでしょう。 「ほかに変ったことは?」 「これも申し上げ難《にく》いことですが——」  幸七は言い淀《よど》みます。 「言わずに済むことではあるまい。主人の下手人を逃がしたらどうする」  平次は容赦のならぬ調子になります。 「掛人《かかりうど》の多賀小三郎様の煙草入れが、梯子段の下に落ちておりました」 「その多賀という方の部屋は?」 「店の裏の四畳半で、ここからは大分離れております」 「主人と昨夜逢ってでもいるのか」 「とんでもない。用心棒代りの掛人には違いありませんが、お身持がよろしくないので、近頃は主人とも面白くないことになり、いずれはお引き取り頂くような話になっておりました」  番頭の幸七は言い難いと言いながら、進んでこんな事まで打ちあけるのは、日頃用心棒多賀某の横暴な態度に、反感を持っているらしいと平次は見て取りました。 「ほかには主人を怨むものは?」  平次の問いは定石的です。 「そんなものは有るはずもございません。公卿御用は勤めておりますが、まことに物のわかった主人で、町内でも評判でございました」 「それほどの人でも、掛人の多賀とかいう人と仲たがいをしたではないか」 「それはもう、怨む者の勝手で、——例えば下男の権三《ごんぞう》などは、遠縁の血のつながりを言い立てて、どうかすると主人に突っかかっております」 「それはどういう男だ」 「主人の従弟《いとこ》の子だそうで、放埓《ほうらつ》で勘当になり、親が亡くなったとき、残った身上と一緒に、大叔父に当る主人に預けられ、しばらく辛抱の具合をみるということで、下男同様に使われておりますが、根がきかん気の男で、ときどき主人に楯《たて》を突いて、持て余しております」 「その男はここにいるだろうな」 「庭の隅の物置——と申しても先々代の主人が隠居所に使ったところで、そこを一と間だけ片づけて住んでおります。今はちょうどお寺へ使いに参っておりますが——」  幸七は歯に衣着せない男でした。奉公|摺《ず》れのした中老人の強《したた》かさのせいでしょう。 「ところで、昨夜のことを詳しく聴きたいが——」  平次は話題を変えました。幸七の無遠慮な言葉に少し当てられた様子です。 「主人はいつものように宵のうち早目に二階へ引き取り、お松さんの世話で寝酒を一合——それは毎晩のことでございます。主人はお酒は好きですが弱い方で、一合くらいやるとぐっすり眠られると申しておりました」 「お松さんというのは?」 「主人の姪《めい》でございます。多勢の女の雇人を使っておりますので、それを見ておりますが」 「そのお松さんが二階から降りたのは」 「亥刻《よつ》〔十時〕前だったと思います。お床のお世話をして、晩酌の膳を引いて、二階から降りた後で、主人は梯子段の上から、私へ明日の用事を申し付けましたから、お松さんにはなんの疑いもあるはずはございません」  この姪が人気者らしく、番頭の幸七までが妙に力瘤《ちからこぶ》を入れます。  平次は立ち上がって部屋の内外を調べました。床も天井も異状がなく、押入には少しばかりの道具と蒲団があるだけ、戸締りは案外呑気ですが、ここから曲者の入った様子はありません。というのは、洒落た板庇《いたびさし》が朽《く》ち果てて、蒼然と苔《こけ》がむしているので、人間が踏めば一とたまりもなく崩れ落ちるに違いなく、第一その上を踏めば足跡が着かないわけはないのです。  四枚の雨戸は今朝、死体を発見した姪のお松が開けたとき、なんの異常もなかったというと、残るは北側の腰高窓だけですが、ここへ登るには、梯子《はしご》かなんかで朽ち果てた庇に登り、そこを足場に、戸をこじ開けるほかは、部屋の中に入る工夫はありません。 「窓の外には大きな青桐《あおぎり》がありますね。あの枝にブラ下がって、北窓へ取付く工夫はないものでしょうか」  八五郎はうさんな鼻を窓から出してみました。 「庇が朽《くさ》って、苔だらけだ。人間が踏めばすぐわかるよ、——だが、念のために、窓の下と、桐の根本を見てくれ。人間の足跡か、梯子を掛けた跡があればしめたものだ」 「ヘエ」  八五郎は外へ飛び出しましたが、間もなくつままれたような顔をして戻って来ました。 「どうだ八、でっかい足跡でもあるか」 「北側は湿り土で、猫の子が歩いても足跡のつくところですが、なんにもありませんよ。窓の外も桐の下も、嘗《な》めたように綺麗だ」 「こりゃとんだむずかしいことになりそうだよ。ともかく皆んなに会ってみよう」  平次も備えを立て直す気になりました。事件は容易ならぬ形相を持っております。     三 「ちょいと」  梯子段の下の、薄暗い物蔭から、そっと平次に声を掛けた者がありました。八五郎と又六は庭へ飛び出し、番頭の幸七は二階へ残って、平次たった一人になった折を狙った相手でしょう。 「……」  黙って振り返ると、白い顔が滑るように平次の側へ。 「お願いですから、番頭さんの言うことを本当になさらないで下さい。権三さんは叔父さんを怨んでなんかいませんし、一本調子なところはあっても根が気の良い人です。番頭さんは、自分がときどき突っ掛かられるので、あんな事を言いますが——お願いですから、どうぞ——」  少しおどおどしておりますが、二十五六のそれは良い年増でした。霞《かす》む眉の曲線や、健康そうな白歯を見るまでもなく、物腰に初々《ういうい》しさがあって、それは間違いもなく娘の肌ざわりです。 「お前は、お松さんとかいったネ」 「え、お願いですから」  お松はそう言って、次の問いも待たずに、ヒラリと逃げてしまいました。地味な袷《あわせ》、襟足の美しさ、香料とは縁の遠い、ほのかな若い体臭——そんなものを平次は感じたようです。  梯子段の下は番頭の部屋で、たった三畳の入口が梯子段の方に向いて、まるで関所のように見えるのが注意を惹《ひ》きました。縁側へ出て外を見ると、庭で植木の冬囲《ふゆがこい》をしていた三十前後の男が、平次の顔を見ると、あわてて引込みそうにするのを、 「ちょいと待った。若い衆、お前は、権三とかいうんだね」 「ヘエ、よく御存じで」  尻切|伴纏《ばんてん》に浅黄《あさぎ》の股引《ももひき》、見得も色気もない男で、案外こんなのが飛んだ色男かもわかりません。 「ちょいと聴きたいが、お前は身代と身柄を、ここの主人——亡くなった大叔父さんに預けられているそうだね」 「ヘエ、あの番頭が、そんな事を申したのでしょう。身代といえば大袈裟《おおげさ》ですが、私が道楽で費い残した身上で、いくらもありゃしません」 「でも、いくらか見当はつくだろう」 「地所と家作が少々、それに金が——世帯を仕舞った時の残りが、五六百両あると聞いておりますが、本当の額を教えると、また私の昔の道楽が始まると思ったか、叔父も番頭も教えちゃくれませんでした。どっちにしたところで、三島屋の身上に比べると、岩壁の苔《こけ》らみたいなもので」 「いつからそれを預けてあるんだ」 「五年前、親父が死んだ時の遺言でございました。——今じゃもう私はあんなものを当てにはしておりません」 「主人——といってもお前には大叔父だが、その主人はお前によくしてくれたのか」 「善いも悪いもありゃしません。五年という長いあいだ、この扮《なり》で下男同様に働かされました」 「お松さんとかいったが、ありゃお前となにか掛り合いでもあるのか」 「ヘッ、許婚《いいなずけ》とかなんとかいわれたこともありますが、五年もお預けを食っていちゃ、大概の恋も褪《さ》めますよ。今じゃ私などを振り向いても見ません、——傍には手代の良助という、若くて好い男がいるんですもの。その良助は近いうち暖簾《のれん》を分けてもらうことになっているそうですから」  こんな呪《のろ》いの言葉が、この男の口から出るのを平次は異様な心持で聴いておりました。その呪われているお松が、真剣な態度で、権三のために弁じたのは、つい今しがただったのです。 「昨夜《ゆうべ》はどこにいたんだ」  平次の最後の問いは露骨でした。 「あの物置の中の自分の寝床にもぐっておりました。たった一人で、誰もそれを見ていたわけじゃありませんが」  権三は苦笑いするのです。     四  倅の祐之助は十八、まだ親の慈悲の蔭に、平凡な良い息子として育っているだけ、その妹のお菊は十五の小娘で、父親の命を奪《と》る原因を作るほどの柄でもありません。  手代の良助は二十八。これは典型的なお店者《たなもの》で、小々軽薄らしくはあるが、色白で顔の道具が華奢で、なかなかの好い男でした。 「主人はことのほか眼を掛けて下さいました。来年はお礼奉公も済みますので、——いよいよ暖簾《のれん》をわけて、預けてある給金にいくらかの金をつけてやり、小さくとも店を持たせてやろうと、御機嫌の良いときは、時々おっしゃって下さいました」 「店を持つなら、配偶《つれあい》の当てでもあるのか」  平次は唐突な問いを挟《はさ》みます。 「ヘエ、それが、その」 「お松さんに、うるさく付き纏っているというではないか」 「とんでもない、親分さん、あれはとんだ固い女で」  さてはこの色男奴、覚えがあるのだな——といった顔をする八五郎を押えるように、平次。 「お前は掛人《かかりうど》の多賀さんを呼んで来てくれ」 「ヘエ、ヘエ」  八五郎は不服らしく立ち去ります。 「ところで、主人の首には、お前の真田紐が巻きつけてあったが、それは知っているだろうな」 「ヘエ、その事でございます。私も一時はびっくりいたしましたが、縄にも紐にも不自由があるわけはございません。本当に人でも殺そうというものが、自分の持物と知れ渡っている、真田紐などを持ち出すでしょうか」  良助は躍起《やっき》となってはね返すのです。ここまで頭を働かせるのは、よくよく追い詰められて必死の智恵を絞《しぼ》ったのでしょう。 「俺も一度はそう思ったが、——一方ではそう思わせるように、わざと自分の持物で、大それた事をする術《て》もあるぜ」 「親分、じょ、冗談で。私は気が小さいのですから、どうぞ脅《おど》かさないで下さい」  良助はまさに追い詰められた鼠です。 「その男が気が小さいか小さくないか、お松に訊いてみるがいい。あのか弱いのを納戸につれ込んで、手籠にしようとしているのを、拙者が二度までも助けているぜ」  ヌッと顔を出したのは、浪人多賀小三郎。  そのころの大町人が掛人という名義で養い、強請《ゆすり》、物もらい、騙《かた》りや押売りなどに備えた用心棒の一人でした。 「多賀さんでしょうね」 「そのとおりだ。多賀小三郎、昔の身分を言っても仕様があるまい。今は三島屋の奉公人同様、変な野郎が来ると長いのを捻《ひね》くり廻しながら、店へ顔を出すだけの仕事だ」  三十五六の青髯、存分に虚無的で、人を嘗《な》めきった二本差です。 「主人との仲が悪かったように聴きましたが、近頃はどうでした」 「いや、少しばかり勝負事に手を出したのが、頑固な主人の気に入らなかったのだ。しかし、そんな事は今始まったわけではない。顔と顔が合えば、お互いに笑って済むことさ」 「昨夜はどうなさいました」 「お濠端の居酒屋で一杯きめて帰ったのが亥刻《よつ》少し過ぎかな。小僧の庄吉に戸を開けてもらって、自分の部屋へ入ったきり、あとは今朝までなんにも知らない」 「煙草入れが梯子の下に落ちていましたが、ありゃ多賀さんのだそうで——」 「嫌な事を言うなよ。なア、平次親分。人でも殺そうという曲者は、どんな細工だってするだろうじゃないか。誰が人を殺して現場の近くへ、自分の煙草入れを捨てて来る奴がある者か」  妙な論理ですが、考えてみるとそれは、手代の良助の論理を一歩進めただけのことです。 「多賀さんの考えで、主人を殺しそうなのは誰でしょう。家中の者には違いないのですが——第一、外から入った様子は少しもないのは御承知のとおりで」  平次はこの虚無的な浪人者の口から遠慮のないことが聴きたかったのです。 「番頭の幸七かな」 「え?」 「ありゃ狸《たぬき》だよ。白雲頭の時分から三十七年とか奉公しているそうだが、途中でいちど世帯を持って、女房に死に別れてまた三島屋へ舞い戻っている。考えてみると、少しばかりの資本《もとで》で、裏店の小商売を始めたところで、三島屋の店に頑張って、月々帳尻を誤魔化すほどの収入はない。あの狸奴、うんと取り込んでいるぞ」  多賀小三郎も歯に衣《きぬ》を着せません。番頭の幸七との仲の悪さが思いやられます。  小僧の庄吉は白雲頭のなんにもわからず、平次は最後に家中の人と人の関係、近所の噂、わけても番頭幸七の溜めっ振り、手代良助の身持、浪人多賀小三郎の懐ろ具合などを、八五郎と又六に調べさせて、自分は一と先ず帰る外はなかったのです。     五  それから三島屋祐玄の初七日まで、なんの変化もなく過ぎました。三島屋の主人を殺した下手人がわからないばかりでなく、紛失物もなく、怨みを受ける覚えもないとなると、なんの目的で殺したのかさえ掴めません。  八日目の朝でした。 「親分、変なことになりましたぜ」  飛び込んで来たのはガラッ八の八五郎です。 「何が変なんだ」 「昨日は三島屋の初七日でしょう。親類中が集まって、位牌《いはい》の前で、死んだ主人の遺言状を開いたと思って下さい」 「思うよ、——それがどうした」 「先ず三島屋の身上《しんしょう》は、倅の祐之助が間違いなく相続すること」 「当り前だ、先を急いでくれ」 「娘のお菊は良縁があって嫁入りするとき、持参金が千両——大したものですね、あのきりょうで一と箱の持参だ」 「少し若過ぎるよ。たった十五じゃお前の年の半分だ」 「あっしがもらおうなんて言やしません、——それから、番頭の幸七は思う仔細《しさい》あって、そのまま暇をやる、——主人は素知らぬ顔をしていても、番頭がうんと取り込んでいることを知っていたんですね。手代の良助には給金の預り百五十両の外に、百五十両の手当を出す」 「それから?」 「それからが大変で——甥《おい》の権三は、身持|放埓《ほうらつ》で、身上と身柄を私が預ったが、五年間よく辛抱した心掛けに愛でて、地所家作の外に五百両の預りに五年間の利息を付けて返し、ほかに三千両の現金を分けてやるように、——お松とは許婚の間柄であったが、権三の心掛けが直るまでお松に申し含めて精々つれなくさせていた。私の亡き後はもはやなんの遠慮もなく、お松と一緒になって世帯を持つがよかろう。今まで私の言う事を聴いて、苦労をしたお松には、別に嫁入り仕度として五百両分けてやるように——と、行届き過ぎるほどの遺言でしたよ」 「?」 「それを聴いて驚いたのは番頭の幸七でしたが、もっと驚いたのはあの下男の権三でした。尻切|絣纏《ばんてん》に浅黄《あさぎ》の股引で、あれでも甥には違いないのですから、縁側の隅っこに小さくなっていましたが、その遺言を読み聴かせると、ただもう声を揚げて男泣きに泣き出したのです。——済まねえ、済まねえ、そんな心持とは知らなかった、叔父さん——と位牌《いはい》の前へニジリ寄って、畳で額を叩いて口説《くど》いておりました」 「そんな事もあるだろうな」 「それきりじゃまだお話になりません」 「まだ話があるのか」 「それからが大変で」 「早くぶちまけな、何があったんだ」 「小舟町の佐吉親分が、前から狙《ねら》っていた様子で、ゆうべ宵のうちに、番頭の幸七を挙げて行きましたよ。手代の良助でなく、浪人の多賀小三郎でなきゃ、梯子の下に寝ていて、そんな細工の出来るのは幸七に違いないというんで」 「フーム」 「幸七は溜め込んでいることは確かで、伊勢町に妾を蓄《か》って置いて、そこを家捜しすると、押入から千両近い金が出て来たんだから、いい遁《のが》れようはありません」  八五郎の報告は重大でしたが、 「待て待て、それじゃ幸七は下手人じゃないぜ」 「ヘエ?」  平次は妙なことを言うのです。 「下手人が梯子の下に寝ていて、夜中に誰も二階へ行った者はないなどと言い張るのも変だし、すぐ知れるはずの妾の家へ、千両近い金を隠しておくのも呑気過ぎやしないか」 「そう言えばそうですね」 「よしよし、もういちど俺が行ってみよう」  平次はもういちど、徹底的に調べてみる気になったのです。  三丁目の三島屋は主人の死んだ時にも優《ま》してなんとなくザワザワしておりました。主人の遺書があまりにも予想にはずれて、その興奮がまだ納まらないせいでしょう。 「銭形の親分さん、——番頭さんは縛られて行きましたが、今度は私が狙われそうで、気味が悪くてなりません。どうぞお調べ下すって本当の下手人を挙げて下さい」  奥ヘ通る平次の後ろから、クドクド愚痴《ぐち》を言いながら跟《つ》いて来るのは、手代の良助でした。主人の部屋へ行く前、問題の梯子段の下に立って、フト庭を見ると、相変らず甥の権三が、いつかのとおり下男姿で、植木の世話を焼いておりましたが、平次の顔を見ると丁寧に腰を屈めて、 「銭形の親分さん、番頭は可哀想ですよ。ありゃ、欲が深いだけで、人なんか殺せる人間じゃありませんよ」  こんな事を言うのです。 「お前はなにか思い当る事がある様子だな」 「とんでもない、私に何がわかるものですか。それよりこの間のお調べに見落しがなかったか、もういちど二階の窓のあたりを調べ直して下さい。小舟町の佐吉親分じゃ、危なくて仕様がない」  権三はお仕舞を独言にして、クルリと背を向けるとスタスタと庭から出て行ってしまいました。  平次は何やら考えておりましたが、思い直した様子で二階へ登って行きます。 「親分、イヤな野郎ですね。変な謎なんか掛けやがって」  八五郎はその後に続きました。 「掛けられた謎は解かなきゃなるまいよ」  二階の二つの部屋は、よく掃き清めてありますが、もはや七日前の惨劇の跡もなく、開けた南窓から、暖かい小春の陽射しが這い寄って、不思議な落着きと安らかさを取戻しております。  北窓——三尺四方ほどの小窓は閉したままですが、これは上の桟が馬鹿になっている上、下の桟もアヤフヤで鑿《のみ》が一梃あれば、素人でも楽に雨戸をはずされます。板庇に人の踏んだ跡があるか、この下の大地に梯子の跡がありさえすれば曲者はここから忍び込んで、寝酒で熟睡している主人祐玄を絞めに行ったに違いありません。  平次は念のために、ガタピシさせながら小さい二枚の雨戸をはずしてみました。 「あッ」  さすがの平次が、立竦《たちすく》んだのも無理はありません。  朽ちかけた板庇の上、人が踏めば一とたまりもなく落ちるか、落ちないまでも苔《こけ》を痛めそうな、この上もなくデリケートな板庇の上に、幅五寸、長さ三尺ほどの板を載せて、曲者はこれを踏んで、なんの痕跡《こんせき》も越さずに、部屋の中に忍び込みましたと教えているのです。     六  平次が驚いたのは、そればかりではありません。板庇《いたびさし》の上、窓とスレスレのあたりに、頭の上へ伸びた青桐の大枝から、一本の丈夫そうな綱が、これを伝わって降りましたと言わぬばかりに、フラフラと垂れているではありませんか。 「曲者はここから入って主人を殺したのですね」 「そのとおりだよ、俺はそれに気が付かなかったのだ。青桐の根のあたりに足跡がなかったので騙《だま》されたが、あんな板が一枚ありゃ、大概の湿り土の上でも、足跡を残さずに歩けるよ」  曲者はこの板一枚を利用して、土蔵の軒下の乾いたところから、青桐の根まで近づき、青桐の上にその板と綱を持って攀《よ》じ登って、二階の窓外に軽く降り立ち、なんの苦もなく部屋の中へ滑り込んだのでしょう。 「流しの泥棒かなんかでしょうか」  八五郎ももっともらしく頭を捻《ひね》りました。 「いや、この家の中のことをよく心得たものだ。それになんにも盗られたものがない、主人の部屋には、かなりの金が置いてあったはずだ」 「すると」 「待て待て、そう先を急いじゃいけない。——その庇の上に落ちている手拭を取ってみろ」 「ヘエ」  八五郎は手を伸して庇の上に落ちていた、薄汚い手拭を拾いました。 「その手拭が誰のか、聴いて来るんだ」  八五郎は手拭を持って飛んで行きましたが、間もなく勝ち誇った声をあげて戻って来ました。 「あの下男の権三の手拭ですよ。家中で知らない者はありません」 「……」 「この前見た時は、板も綱も、手拭もなかったでしょう。本当の下手人が、権三を罪に落す気で、こんな細工をして見せたんじゃありませんか」  八五郎はまた先を潜ります。 「いや、曲者は権三を罪に落す気なら、外にいくらでも手段《てだて》がある、——それにあの板を持って青桐に這い上がり綱を伝わってここへ降りるのは、容易の力業ではない。そんな腕の力を持っているのは——」 「すると」 「主人の遺言を読んで、権三はひどく泣いていたと言ったな」 「ヘエ、大の男のあんなに泣くのを、あっしは見たこともありません」 「その権三がさっき、この仕掛けを知っているような口振りだったな」 「いやな謎を掛ける奴だと思いましたよ」 「その権三がどこにいる、見付けて来い」 「ヘエ」  八五郎と又六は飛びましたが、その時はもう権三の姿はどこにも見えなかったのです。店中の者に訊くと、 「権三はつい今しがた、どこかへ行きましたよ。怖《こわ》い顔をしておりました。すると間もなくお松さんが、気違い染みた様子で後を追っ駈けましたが——」  こんな話で口が揃います。 「しまった。八、手配を頼むぞ、——なにか持って行ったか? 何、空《から》っ手で行った——金は? 一文も持ち出さない、二人は死ぬ気かも知れない。四宿に網を張る前に大川に気をつけろ」  平次は夢中になって号令しております。  果して権三とお松の死体は五日目に永代の土手に上がりました。五日のあいだ二人はこの世の歓楽を極め、五年越し秘めた恋を爆発的に味わい尽して、その絶頂から死へと一足飛びにしたのでしょう。  一件落着の後、八五郎の問うがままに平次は説明してやりました。 「権三は叔父の祐玄を怨んでいたのだ。五年越し辛抱に辛抱しているのに、預けた家も地所も金も返さず、その上許婚のお松まで取り上げて、良助に娶合《めあわ》せると思い込んだのだろう。お松が慎み深くて、権三の気持を察することが出来ず、叔父の言い付けばかり後生大事に守ったのが間違いの基《もと》さ。若い女は少しは色気があった方がいいな。——権三はとうとう我慢がなり兼ねて叔父を殺した。初七日でも過ぎたら、お松をつれて飛び出そうと思っていたことだろう」 「……」 「ところが、初七日の遺言の披露で叔父の並々でない心持、自分のためを思ってしてくれた大恩がわかって、根が正直者な男だけに、いても立ってもいられなくなった。その上番頭の幸七が縛られたのを見て、自首して出る気になったが、まだ命に未練があるのと、一つは俺をからかいたくなって、あんな細工をしてみせたのだろう。あれでも自分が下手人と判らなければ、そのまま口を緘《つぐ》んでいるつもりだったかも知れない。誰だって命が惜しいから、いよいよ覚悟をきめても、なにか十に一つの助かる道が欲しかったのだろう」  平次はこう絵解きをしてくれるのでした。 「親分、人の心が不思議だと言ったのは嘘じゃありませんね」 「お前が大福餅を狙っているのはわかっても、権三が下手人とは読み兼ねたよ。一度叔父を殺しながら、自首する気にもなれず、あんな細工をして見せて、運を天に任せた心持も考えると可哀想でもあるな」 「でも好きな同士で、三日でも五日でも、存分に暮したんだから、悪くありませんね」 「馬鹿だな。お前なんざ、無事で長生きする方が柄だよ」 「甘く見ちゃいけません」 「……」  ちょいと髷を直して、長んがい顎を撫でる八五郎です。あまり大した手柄もなかったこの事件の底に潜む、割りきれないものを平次は考えている様子です。   (完)